花人間のカルテ――解釈について


 しばらく沈黙が続いたあと、僕は立ち上がった。
 もっと訊きたいことはあったけれど、秘密を抱えることから逃げ出したいだけなのかもしれない。ヒースは戸惑いながらも僕に続き、具合の悪そうな顔でイライザを見る。

「ウイルスに抗体を持つ人間は、この世界にいない……?」

 しばらく同じ空間にいて、イライザへの警戒が少し解けたのだろう。恐る恐るだが、はっきりした声だった。

「わたしたちの見解ではね」

 ゆっくりと地面に沈んでいくような言葉だった。慰めを求めていたわけではないだろうけど、その迷いのない言葉に彼は顔を伏せる。

「ただ」

 やけに耳に残る声だった。僕らは途方に暮れたまま、イライザの言葉を待つ。その瞳が迷いなく自分を向いていることに、今更気づいた。

「茎の髪を持つ適合者は見たことがないと言ったでしょう。わたしは……あなたに大きな可能性を感じてる」

 その視線が、珍しいものを狙うハンターのものなのか、研究者としてのものなのか、僕には判断できない。少し恐ろしくなり、返事をせずに出口へと向かった。

「また気が向いたらここで話をしましょう。怪我の具合からして、どのみち数日はここにいないといけないから」

 彼女の言葉は、僕がまたここにくることを確信しているようにも聞こえた。
 まだ暗いうちにコミュニティへ戻り、ヒースと別れて部屋に戻る。お互い何も言わなかったけれど、彼女に聞いた話はまた二人だけの秘密になった。ただ、最初のときのような高揚感はもうない。
 脳が覚醒していて眠れる気はしなかったけれど、少しでも楽しい夢が見たくて、横になって瞼を閉じた。




 翌朝、外は晴れていた。家畜小屋で先に作業を始めていたヒースはいつものように無言で、昨日の出来事がどこか遠く感じる。

「朝食のあと、クレイのところに行こうと思うんだけど……一緒に行く?」

 おそらくヒースも彼の様子は見に行くだろうから、別々に行く理由もないだろう。
 相変わらず外は寒く、まだ雪は溶けきらない。彼が道具を片付けるのを待ちながら、氷の塊になったそれを爪先で弾く。

「……俺は行かない」

 道具小屋から出てきた彼は、こちらを見ずに答えた。意外だった。
 鮮やかな花びらを持つ適合者であるほどクリーチャー化するリスクがある……事実と決まったわけではないけれど、ヒースならば片時もクレイから目を離さないような気がしていた。
 僕はまた、自分の隣を歩く彼を盗み見る。その白い花びらが何を考えているのか、秘密を共有したところで分かりはしない。

 宣言通り、ヒースは朝食を食べ終わるとすぐ席を立った。少しだけその後姿に声をかけたくなったけれど、結局何も言えずにクレイの元へ向かう。体調の経過を診るため、彼はしばらく医務室で過ごしているのだ。

「ほんと、無事でよかったよな」

 いつものように目じりを下げて言う彼に、僕もほっとしていた。顔色も良く、体が怠いくらいで、特に変わったところはないらしい。
 退屈だったのだろう、彼は昨日の吹雪のことや、僕たちのことがいかに心配だったかを身振り手振りでよく話した。
 窓から差し込む光が今日も鮮やかに咲き誇る彼の花びらを輝かせる。その輪郭を滲ませて、どこへ連れて行くっていうんだろう。
 そんなことを考えながら、あの虚な目をした適合者の影を見る。

 ――知らなきゃよかった。

 もうどうにもならないことをずっと繰り返している。
 知らなくてよかったのに。
 あのとき、知るべきではないとどうして誰も教えてくれなかったの。
 あの煩わしくて愉快な色はもう二度と見えない。
 二度と見えない。
 宝物を返してほしい。

「エディ?」

 クレイの声に意識が引き戻され、僕は長く息を吸った。椅子に座りなおして、彼の目を見て笑おうとした。

「きみもどこか悪いんじゃないか? なんだか……顔色が良くないぜ」
「大丈夫だよ」

 僕は大丈夫だ。ただ、この世界の憂鬱なことは、大丈夫な方に集まってはくれない。それを心から恨めしく思う。

「ヒースとは何か話した?」

 僕の質問に、クレイは肩をすくめる。どうやらまだ会話をしてないらしい。まるで意地を張っているようでもどかしくなる。ただ、昨日の言い争いのときとは違って、彼に怒りは感じなかった。チャンスかもしれない。

「いい機会だし、彼とちゃんと話をしてみたら?」
「見てただろ、あいつは何を言ったって納得しない」
「じゃあ……きみが地図に丸をつけたところを僕が全部確認してくるから。しばらくヒースのそばにいてあげてよ」
「体調が良くなっても外へ出るなって?」
「いや、ハンター探しはこれでやめるってこと」

 少しだけ、クレイの瞳に動揺が見えた。初めてのことだった。怒ると予想していただけに戸惑い、慎重に言葉を探す。

「もっといいことがある。ほら……新しい観測所を探したり、町のみんながもっと楽しく過ごせる場所を作ったり。どうかな?」
「……だけど、ハンターに襲われちゃおしまいだろ?」
「もちろんこれまで通り警戒は怠らない。どちらか一つしか選べないわけじゃないよね」
「ぼくは……」

 言い淀む。珍しい光景だ。
 クレイは少しだけ顔を伏せ、黙り込んでしまう。もしかすると、ヒースが追ってきたことが彼に心変わりをさせているのかもしれない。
 ヒースの行動は無駄ではなかったのだ。そう思った途端、体が前のめりになるのが分かった。
 僕は星を眺めるふたりの姿が見たい。
 今度は仲間に入れてくれるだろうか。

「僕ときみと、ヒースで……三人なら大丈夫だよ」

 そういえば、願いを言葉にすれば叶うとどこかで聞いた覚えがある。――あれは真っ赤な嘘だ。
 クレイの瞳がこちらを向く。その、苛立ちとも嫌悪とも当てはまらない表情が目に焼き付いた。

「ぼくはまだハンターを探したい」
「どうして?」

 気づけば食い気味に訊ねていた。どうして? 意味が分からない。
 クレイは短く息を吐いて顔を背けた。その分からず屋の態度に腹の底から苛立ちが湧いてくる。

「言っただろ。仲間を殺されたくないんだ」
「昨日はきみや僕たちが遭難して死ぬところだった」

 想像以上に大きな声が出たことにお互いが驚いていた。居心地の悪い沈黙に空気が張り詰めていくのを感じる。その程度では、怒りは消えてくれない。

「ヒースは外に出ないって言ったよね? 彼は来たよ。きみのためにそうしたんだ。どうして分からないの?」
「……目の前で仲間を撃ち殺されれば、きみもぼくと同じことをするさ」
「辛いだろうね。けど、きみを追ってくるヒースだって」
「あいつは関係ない!」

 クレイの声が鼓膜を震わせる。彼は苦しそうに顔を歪め、僕を睨んだ。完全に動揺した。

「関係ないって……?」

 思わず漏れた声があまりにも情けなくて、その先が出ていかない。苛立ちの熱はすっかり冷め、心はどんどん萎んでいく。
 クレイにとってヒースの存在は、関係ないの一言で片付くはずがない。そう確信しているのに、信じ続けてきたものが崩れる気がして恐ろしくなる。

「これは……ぼくがきみと始めたことだ。ヒースは関係ない。きみがやめたきゃそうしろよ」

 その瞳には一歩も引かない意思が見えた。
 もっと別のことを三人でやるべきだと思うのは、いずれ誰がいなくなることを惜しんでいるからだろうか。
 ――最低な気分だ。

「……僕が全部やるから」

 日の光が眩しいのが鬱陶しい。あれが高く昇って沈むように、何事もない毎日が欲しいだけだ。まだ何か言いたそうなクレイを置いて、医務室を出る。


 昨日の吹雪のことがあった影響で、今日は大人たちだけでパトロールするということだった。安全区域に問題がないか確認するだけなので、イライザがいる廃屋は問題ないだろう。
 いつも外にいるはずの時間なので何もやることがない。部屋にいるのも息苦しく、僕はヘイブンの出入り口前の階段に腰を下ろしていた。それぞれの役割をこなしている住人達の様子を眺めながら、その花びらの色が余計に目に入る。
 イライザが話していた鮮やかな色、それに該当する花人間はいない。これまで意識したことはなかったけれど、改めて、クレイの花びらが目立っていた理由を思い知る。
 ふと、白い花が視界の隅に見えた。
 この真っ白な花も、彼だけだ。

「クレイと話したよ」

 僕は言った。返事はない。構わずに続ける。

「観測所のことだけど……次からは僕一人で行こうと思う。きみは、クレイが外に行かないよう見張っててくれる?」

 もっと早くこう提案するべきだった。しばらく冷たい風に当たりながら、ヒースの言葉を待っている。遠くで聞こえる笑い声が昼間の空気に連れ去られていった。

「俺も行く」

 その返事を想像していなかったわけではないのに、戸惑いと苛立ちに似た感情が滲みだす。ただ、僕が言うより先、ヒースがその先を続けた。

「何か方法があるはずだ。俺たちや……クレイがクリーチャーにならない方法が」
「どうかな。あの女もよく分かってないみたいだったし」
「……きみの話はどうなんだ」

 少しだけ喉が詰まる。
 顔を上げると、僕と似たような表情をしているヒースが目に入る。眉間に皺が寄る、具合の悪そうな顔だ。

「この髪とか……クリーチャーに襲われないこと? あの女に話すべきだと思う?」
「……ああ」

 あまりにも早い回答に、自分が傷ついていることが分かった。本当に馬鹿げてる。

「なおさらきみが行く必要ないよね。武器は確保できないんだし、クリーチャーに出会っても襲われない僕だけの方がいい」
「武器ならある」

 言いながら、ヒースは上着を少しだけ広げる。明らかなに不似合いなものが内ポケットから覗いているのが見えた。ハンドガンだった。
 僕が驚いたのを確認すると、彼はすぐにそれを隠す。具合の悪い顔はそのまま、言葉を探しているようだった。だから僕が先に訊いた。

「弾は?」
「ある。一発だけ」
「そんなものでクリーチャーは殺せない」
「分かってる」

 なぜそんなものを持っているのかという疑問はあった。ただ、それ以上に彼が何を考えているかが関心のすべてだった。
 
「人間なら殺せる」

 ヒースの言葉に愕然とした。僕より最も遠いところにいると思っていた彼からそんな言葉が出たことに傷ついているのだろうか。僕は何も言えない。

「もしきみの話でイライザが妙な真似をしたら、俺が撃つ。だから一緒に行く」

 本当に不可解だ。
 危険を無視して無謀なことをするのはクレイと全く同じなのに、引き返そうとはしない。彼らは互いに、その先にある正しさを盲目的に信じている。
 僕もまた――苦しい思いの方が多いのに、それでもなおこのふたりの友情をずっと見ていたいと思う。

「お互い、後悔しないといいね」

 まるで他人事のように僕は言って、初めてヒースの前で笑った。