花人間のカルテ――解釈について

 雪はやんでいた。さほど積もらなかったのも幸いして、思ったより外は歩きやすかった。
 少し前を歩くヒースの背中を見つめる。まさかこれほど手際がいいとは思わなかった。
 彼はすでにまとめていた荷物を持って、コミュニティの門とは真逆の方へ向かった。他と変わりないように見えた鉄製の壁には一か所だけ歪みがあって、鉄板を接ぎ合わせてその隙間を埋めている。ヒースがその板に触れ、留め具のようなものを弄るといとも簡単に外れた。人一人が通れる隙間ができ、そこから外へ出たのだった。

「さっきの抜けだし方だけど……クレイ直伝?」
「ああ」

 返事が素っ気ないのは、これまでクレイに外へ行くなと言ってきたことへの後ろめたさのせいだろうか。もちろん彼の傷を抉りたいわけではないので、僕は話題を変える。

「あの女に食料と衣服を渡すのは良いけど、それからどうする?」
「……分からない。けど、きみが言うように、コミュニティに入れるかどうかは俺たちだけじゃ判断できない。だから、しばらくあの場所で面倒を見る」
「あそこで? 確かにあそこには僕たち以外誰も行かないだろうけど……」

 あの女に一番会わせていけないのはクレイだろう。そしてそのクレイは、体調を崩している。つまりあの場所はかなり都合がいい。であれば――。

「助けるのは罪悪感があるから? それとも情報を得たい?」
 
 はっきりさせておいた方がいいと思った。感情論で動けばいずれ破綻する。相手は得体の知れない団体の一員で、適合者やクリーチャーについてこちらが知らない情報も持っているようだった。できる限り隙は見せたくない。
 ヒースが立ち止まって振り向いた。月明かりが積もった雪に反射し、外は十分明るい。その中で、青白く輝くヒースの髪がひときわ目を引いた。僕が自然とこの花を探すのは、たぶん、単純な理由なんだろう。

「どちらでもある」

 彼は言った。迷いなどないそれに、思わず目を細める。
 きみみたいな人を「世間知らず」と言うらしい。
 僕がここに来たのは、あの女の情報に危険を冒す以上の価値があると感じたからだ。
 弾丸の入ってない猟銃を撫でる。弾は厳重に管理されているから持ち出せなかったのだ。僕たちは丸腰のまま、こんな危険な世界に飛び込んでいる。それでもなお誰かに対して真心を向けられるこの白い花は、時々、幻のようにも見えた。
 
「行こうか」

 僕は言った。甘く、最後に苦みを残していく香りを吸い込んで、彼を追い越していく。
 消えてしまうなら、僕が先であってほしい。

 静かすぎる森を抜けると、その視線の先にあの廃屋が見えた。昼間の吹雪が嘘だったように快晴で、夜空には星が散らばっている。思わず足元を見るのも忘れて空を仰ぐ。

「こんなに星が見えるんだ」

 僕の声にヒースが少し笑ったような気がした。あのふたりが以前一緒に見上げていた星空も今日のように美しかったのだろうか。そうだったら嬉しい。

「エディ」

 名前を呼ばれて現実に戻される。視線の先には小さな明かりが見えた。焚火のようだった。
 僕たちは顔を見合わせる。流れた場違いな安堵感は、女が生きているようお互いが願っていた証でもあった。頷き合って、また慎重に歩き出す。
 出入り口は閉ざされていた。穴だらけの壁から明かりが漏れている。人が動く音はしないが、警戒されて余計な抵抗をされるのは避けたい。僕は扉をノックした。

「イライザ」

 忘れもしないその名前を呼ぶ。返事はない。どう言えば効果的なのか、少し考えて口を開いた。

「コミュニティには案内できない。けど、食料を持ってきた。死なれると、寝覚めが悪いから」

 嘘はない。ただ、僕たちがやりたいのは人助けの真似事でもない。間を空けずに続ける。

「その代わり、あんたの情報が欲しい。あのクリーチャーのことだ」
「……どうぞ」

 想像よりも随分簡単に招かれ僕は戸惑った。一度ヒースの顔を見る。彼も決めかねているようだったが、覚悟を決めたように頷いた。僕は彼を少し離し、足で扉をそっと押し開ける。
 そこには、焚火の前に座り込んで暖を取るイライザの姿があった。彼女は猟銃を手にしている僕を見てわざとらしく片手をあげてため息をつく。

「……銃口を向けられるって結構気分悪いのよ」

 敵意もなければ、警戒するそぶりもない。それだけ疲弊しているのだろうか。余計なストレスを無駄に与えるのは互いに避けた方がいいのかもしれない。僕は銃口を下げる。
 ヒースが少し離れたところに荷物を置いた。イライザは不満そうな顔をしたが、何も言わずに左足を引きずりながらリュックを受け取る。中身を見ると、感嘆の声を上げた。

「服まで持ってきてくれたの。あなたたち、ずいぶん優しいのね。死体になってなくて安心したんじゃない?」

 軽口に答えるつもりはない。僕たちは離れたところで立ったまま何を聞き出すべきか考えていた。彼女はお構いなしに水を口にする。

「……仲間はいるのか?」
「いたけど、探しには来ない。優先すべきは自分の命だから」
「そんな薄情な団体なんて、ますます信用できないな」

 僕の言葉に、イライザは笑う。まるで見透かされているような目に自分が動揺したのが分かった。表情を変えないようにするだけでも一苦労だ。

「わたしをすんなり見捨てていくあなたが言う? 余計な仲間意識なんてこの世界ではリスクでしかない。その点、あなたは少し信用できる」
「……どうも」

 確信はないが、イライザもまた、僕の茎の髪について少しでも情報を得たいように見える。こうして簡単に招き入れたのも辻褄が合う。

「とにかく、わたしを探しに来る仲間はいない。あなたたちがわたしの生命線ということ」
「……じゃあ、あのクリーチャーの情報を教えてほしい」
「いいわ。でも条件がある。この話はコミュニティの誰にも共有しないこと。もちろん、わたしのことは黙っているようだから、問題ないとは思うけどね」

 返事の代わりに頷く。僕たちはもう少しだけ彼女から距離をとったところに腰を下ろした。

「あのクリーチャーは元適合者だったと話したことについて。あれは本当よ。あなたたちには特にショッキングなことだろうけど……適合者もクリーチャー化する」

 いきなり核心に触れられ、思わず息をのむ。否定したいはずなのに声が出なかった。

「そもそも適合者は……ウイルスに対する免疫を持っているわけじゃない。わたしたちの研究結果ではね」
「……意味が分からない。免疫があるから死なないんだろ」
「違う。あなたたちの状態は、たまたまウイルスの浸食が止まっただけ。そして浸食が再開し、それが脳に及んだとき……適合者はクリーチャー化する」

 僕は小さく笑った。起きた事象に後付けするのは簡単だ。信じろという方が無理だろう。
 ふと、黙ったままのヒースを横目で見る。彼はすっかり怯えたように黙り込んでいて、何を言うべきか分からないようだった。

「あんたたちがどういう研究をしてきたか知らないけど、少なくとも今日まではそんな適合者を見たことがない。開花して死んだやつもね」
「まぁ、眉唾なのはごもっとも。こちらとしてもどういう条件でクリーチャー化が起こるかを証明できたわけじゃない。分かってるのは、今回もそうだったけど――鮮やかな色をした花弁の適合者がその傾向にあるってこと」

 耳鳴りがして、血の気が引いたのが分かる。
 動揺を悟られたくなくてゆっくり呼吸を続けた。先ほどまで忘れていた、感染者の死体の香りがまとわりついてくる感じがする。ヒースの方は見なかった。

「鮮やかって、あの紫色?」

 僕は訊ねた。イライザは、その動揺を悟ったことだろう。ただ何も指摘せず、ショッキングだという単語で片づけるその研究上での事実を口にした。

「そう、紫色。それに近しいピンクや赤もそうね。あとは……オレンジ」

 取ってつけたように言われたことすら信じられない。

 気づけば俯いたまま片手で顔を覆っていた。
 彼女の話が事実と決まったわけではないのに、息ができないくらい苦しい。どうせなら何も知らずにすべて終わればよかったなんて、そんなことさえ思った。

「その色に該当する仲間がコミュニティにいるのなら……注意しておいた方がいい」

 イライザが何か言った気がするけれど、聞き返す気力はない。
 こんな時でも僕は、ヒースのことを考えている。彼にこんな話を聞いて欲しくなかった。
 秘密を共有したかっただけだなんて、言い訳にもならない。