花人間のカルテ――解釈について

 人間。
 かつて自分もそうだったというのに、耐え難い嫌悪と恐怖を感じる。過去の忌々しい記憶がそうさせるのだろう。僕は銃を構えながら、入ってきた人間を注意深く観察した。
 黒い短髪に、日焼けした肌。年齢は……少なくとも自分より年上だろう。着ている服で体のラインは分かりづらいが女だと分かる。荷物は小さなリュックだけで、武器のようなものは見えなかった。

「待って、敵じゃない」

 こちらの声を待たずに女は言った。息が乱れているせいであまり長く話せないようだ。体を仰向けにし、うめき声をあげた。左足を慎重に動かしている様子で怪我をしているのだと分かる。

「感染者か?」
「違う。足を怪我しているけど、これはただの打撲」
「ここで何してる?」
「ちゃんと話すから……」

 肩で息をしながら女は諭すように言う。風の音が小さくなった代わりに、お互いの息遣いだけが空間を満たした。女が痛みに顔をしかめるのは、油断させる演技ではないと断定できない。ただ、敵意は感じなかった。
 ようやく呼吸が整ってきたのか、女はこちらを見る。適合者など見慣れているだろうに、彼女は目を丸くした。

「あなた……適合者なの?」

 言われて、自分の姿に驚愕したのだと思い至る。珍しい姿なのは自覚していたが、状況のせいで認識が抜け落ちていたようだ。あえて返事はしない。女は一人でぶつぶつと喋り続ける。

「花びらを持たない適合者なんて聞いたことない……。ねぇ、他の適合者とは違う特徴を持ってたりする?」

 ヒースの顔がこちらを向くのが視界の隅に見える。つい先ほど話していたこともあり、僕たちは互いに動揺していた。だが、気づかれるわけにはいかない。女の訊ね方はまるで……珍しい適合者を探しているようだ。

「ハンターか?」

 できるだけ声を低くして訊ねる。次は女が戸惑う番だった。眉根を寄せ、そして勝手に納得したように頷く。

「適合者を狩る人間のこと……よね?」
「どうなんだ?」
「断じて違うわ。本当にそんな人間がいるとは思えないけど。わたしは研究医よ」
「医者?」
「そう。ウイルスの解明のために、コミュニティを回ってる団体の一人ね」

 にわかには信じがたい。こんな世界で、いまだにウイルスについて調べようとするだろうか。女の言う『団体』は、それこそハンター集団と呼称するに相応しく思えた。ウイルス解明のため、適合者を狩る――違和感はない。

「イライザよ。怪我して動けないんだし、それ下ろしてくれる?」

 銃のことを指摘されどうすべきか決めかねていると、隣にいるヒースが下げるようジェスチャーする。意外にも、僕より落ち着いているように見えた。息をゆっくり吐き出し、銃を下ろす。緊張の糸が切れたように少しだけ空気が軽くなった気がした。

「わたしたちは様々なコミュニティで医療活動や、生活支援をしてるの。この周辺で一番高い山があるでしょう? その方向にあるコミュニティで活動してたところだった」

 山の方向。安全区域外の方向だとすぐに分かった。目視で確認できる場所にコミュニティはなかったから、距離としてはそれなりに離れている場所だろう。真意不明だが、小規模コミュニティが付近に点在していてもおかしくはない。
 けれど、女が行う活動は、怪我から最も縁のないものだと思える。不信感に目を細めた。

「……どうして怪我をしてる?」
「これね。ちょっとトラブルがあったの」
「適合者を狩ってたんじゃないのか?」
「違う。その適合者に襲われたのよ」

 瞬間、ここに来る前に撃ち殺したクリーチャーの姿が頭によぎる。状態からクリーチャー化した人間には間違いなかったが、見た目は適合者そのものだった――。

「紫色の髪をしたやつ?」
 
 突然ヒースが口を開き、僕はぎょっとする。慌てて女の方を見ると、彼女も驚いているようだった。

「遭遇したの?」
「……襲われかけた」
「なんてこと……よく無事だったわね」

 思わずヒースの袖を引いていた。こちらを向いた瞳にありありと不安が滲んでいて、彼もまた怯えているのだと分かる。取り乱すわけにはいかないと、何度か呼吸を繰り返した。

「僕らには武器があったから。けどあれは、適合者に似たクリーチャーだろ」
「いえ。つい数時間前まで一緒に会話を楽しんでた適合者よ」
「信じるもんか」
 
 そもそも花人間はすでにウイルスに侵されている。その上で正気を保っているから適合者と呼ばれている――はずだ。

「……ここで証明できるものはない。とにかくわたしは、あのクリーチャーに襲われて逃げてきた。けれど吹雪の中で帰り道が分からなくなって……この家を見つけた」

 筋は通っているようで、すべてが破綻しているようにも聞こえる。僕たちは何を言うべきかわからなかった。
 ふと、これまで以上に静けさが満ちていることに気が付く。廃屋の崩れた壁から外を見ると、雪は降り続いていたがすでに風はやんでいた。今しかない。

「戻ろう」

 声をかけて、女がいる出入り口は使わず崩れた壁から出ていこうと身をかがめる。慌ててヒースが僕の腕をつかんだ。

「置いていくのか?」
「そうだよ。連れていけるわけない」
「待って」

 少し焦りを含んだ女の声がする。彼女は顔をゆがめ、手振りも加えて必死に懇願した。

「不安なのは分かる。でも、必ずあなたたちの役に立てるから……どうか助けを呼んできてくれない? わたしはあなたの言うハンターではないし、ウイルスについてもそれなりの知識がある。生き延びるために必要な知識がね」
「じゃあその知識でここから生き延びればいいさ」
「……あっそ。いいわ、凍え死んだらあなたを呪うことにする」
 
 虫を払うように手を宙に振り、女は天井を仰ぐ。それを見届け、僕は外へ出た。戸惑いながらも、ヒースは何も言わずについてくる。
 雪を踏みしめながら足早に進んだ。視界も開けていたため、問題なくコミュニティにたどり着けそうで胸をなでおろす。駆け足が近づいたと思うと、横に白い花びらがやってきた。
 
「……助けるべきじゃないのか? 少なくとも、俺たちよりはあのクリーチャーに詳しそうだった」
「そうかもしれないけど、実際何をしてたかなんて分からないでしょ。もしかしたら、あいつが適合者をクリーチャー化させたのかも」
「そんなこと……」

 不可能だ、とは誰も断言できない。いや……重要なのはそこじゃない。
 あの適合者によく似たクリーチャーは、とんでもなく不吉な感じがした。
 ――適合者であっても、クリーチャー化はあり得るのか?
 それはあまりにも恐ろしい疑問だった。思わず唾を飲み込み、銃を強く握りしめる。
 隣のヒースを盗み見た。自分と同じような怯えた表情は、仄暗い安堵感を与えてくる。

「この話は僕たちだけの秘密にしよう」

 言葉にして、滲みだしてきたそれが高揚感だったことにひどく戸惑う。秘密を共有することが、どうしてこんなにも特別なものに感じるのだろう。見えない繋がりのような、それこそ、ヒースとクレイの間にある絆のようなものを感じる。
 ただ、明らかに違うと思うのは、この絆は僕からの一方的な錯覚に過ぎないということだ。

「……分かった」

 いつも以上に弱々しい声だった。何が正しいのかなんて判断できるものじゃない。だけど、僕はきっとこの話をクレイにしないと確信していた。
 
 会話もないままひたすら歩き続け、ようやく高い壁に覆われたコミュニティの入り口が見えてくる。僕たちの姿に気づいた見張りの仲間たちが声を上げながら駆け出すのを見て、一気に体の力が抜けた。
 すぐに温かな部屋へと連れていかれ、無事に帰ってきたことで大きなお咎めもなくホットミルクにありつける。
 僕は何も話さず、ヒースも話さない。少し離れたところで暖をとる彼は、近くにいた大人にクレイの様子を訊ねていた。
 少し落ち着いた後ヒースと一緒に顔を出しに行くと、クレイはベッドから飛び起きて泣きそうな顔で僕たちを迎えてくれた。
 彼らが再会できてよかったと心から思う。




 その夜は随分静かだった。
 一人きりの部屋で、僕は何度目か分からない寝返りを打った。

 ――あの女は死んだだろうか。

 胸は痛まない。だが、知るべきことはもっとあったようにも思える。あのクリーチャーだけではない。ウイルスを研究していると言っていたあの女でさえ、僕の容姿に驚いていた。
 固く触り心地の悪いその髪に触れる。何かとんでもないチャンスを逃がしたような気がするのはなぜだろう。僕はここにいたいのに。

 ふと、扉が遠慮がちにノックされる。心臓が大きくはねた。
 僕は少しの間扉を見つめ、ベッドから出る。音が出ないようそっとドアノブをまわし、扉を開けた。
 そこにはヒースの姿があった。

「……一緒に来てくれないか」

 すぐに理解した。彼はあの廃屋に向かうのだ。
 不思議と驚かない。その代わり、喜びと恐ろしさが混ざったような感情が暴れまわっている。黙ったままの僕の様子を拒絶だととらえたのか、ヒースは疲弊した瞳を細めて苦しそうな顔をした。

「お願いだ。一人じゃできない」

 彼の前だと笑えない。
 自然と眉根が寄り、今にも逃げ出したいような情けない歪んだ顔で、僕は頷く。

「いいよ」