花人間のカルテ――解釈について




 エディが去った。
 昼下がりの太陽が輝く中を、ヒースは一人で歩いている。クレイは先ほど眠った。体調は安定しているようだった。
 遠くで走り回る子どもの声を聞きながら、コミュニティの壁沿いを歩いた。なんとなく手を伸ばして鉄板に触れる。ここに溜まった熱に触れるのが好きだった。雨風にさらされたそれは手入れなどされず、固まった泥がざらざらと手にまとわりつく。こんなに穏やかな気持ちで、まるで散歩をするように歩くのは初めてだった。

 しばらくして医務室に戻ると、短い微睡から戻ったクレイは本を読んでいた。エディのことでも考えているのかどこか上の空で、ヒースもまた会話をする気分になれず、ただじっくりと日が傾いていく中を共に過ごした。
 すっかり陽が沈み、ランプの明かりだけがぼんやり浮いた医務室で、ふたりは夕食をとる。三人で過ごしたのはつい昨日のことなのに、随分前のように感じる。

「なぁ」

 ベッド横の椅子に座りながらスープを口にしていたクレイに声をかける。彼は返事をせず、視線だけを向けた。

「これから観測所に行かないか」
「はぁ?」

 遠慮のない呆れた声が懐かしい。クレイはずいぶん子供っぽい不機嫌な顔をして、ようやく空になったトレイを床に置く。

「外に出ようって言ってるのか?」
「そうだよ」
「人にあれだけ文句を言っておいてか? 呆れるな。それに抜け道はふさがってるぜ」
「知ってる。だからまた探したんだ。それで、いい場所を見つけた」

 自分の言葉で目を丸くするクレイは新鮮だ。ヒースは表情を変えないまま彼の様子を眺め、答えを待つ。返ってこないことがほとんどで、それは大した問題ではなかった。

「今日は星が良く見えそうだし」

 ヒースの言葉に、クレイは窓の外の暗闇に視線を向けた。しばらく沈黙が流れた後、彼はゆっくり立ち上がる。

「いいよ」

 ヒースと視線を合わせないまま上着に腕を通し、いつもの黒いマフラーを首に巻く。特別大事にしているように見えるマフラーは、いつまでたってもクレイの物ではないように、その首に馴染まない。
 廊下へ出ると、仲間たちの楽しげな声が廊下の奥から響いていた。以前のように何も持たず、身一つで外へ出る。クレイが見つけた抜け穴を、罪悪感と高揚感が混ざった想いで通っていたあの頃が懐かしい。塞がれたその場所には寄らず、家畜小屋の少し先にある場所へと向かった。昼間に見つけたそこは、この間の吹雪で積もった雪の重さで歪んだようだった。鉄板を強く引けば、人一人が通り抜けられる隙間ができ、彼らはそこを通って外へ出る。

「いつでも出ていけと言われてるみたいだな」

 服についた泥を払いながらクレイは言う。ヒースも同じことを考えていた。あれほど仲間たちに頼りにされていたエディを止められる大人はいなかったのだ。ここは高い壁に囲まれた小屋のようなもので、簡単に外へ出ていくことができる。
 ふと見上げた夜空に浮かぶ北極星に、エディの背中が重なるようだった。

 「エディはどこを歩いてるかな」

 なんとなく零れていった言葉に、クレイが笑う。どちらが合わせるわけでもなく、ふたりは並んで歩きだした。

「さぁね。今頃あの女と喧嘩でもしてるんじゃないか」
「あの人、何歳なのか聞いた?」
「知るわけないだろ。興味もないね」

 イライザについて気を許したわけではないのだろう、彼女のことを話すと声が低くなる。ただ、思ったよりも平気そうで、ヒースは安心した。

 ――エディは帰ってくるだろうか。

 だからこそ訊ねられない言葉を頭の中で呟いてみる。二人で観測所に逃げ込んだあの日、エディが茎の髪について弱々しく語ったことについて、もう少し寄り添うべきだっただろうかと今更思う。自分たちのように香りを持たない彼が、少しでも茎の髪の真実にたどり着ければと願った。

「どう、登れる?」

 観測所の傷んだ梯子を確かめるクレイに訊ねる。振り向きもせず短い返事をして、彼はゆっくり足をかけた。普段より歩く速度も遅く、すぐに息が上がっていたことには気づいていたが、ヒースは何も指摘しなかった。
 クレイが屋根の上に手をかけたのを見計らい、ヒースもまた梯子を上り始める。上からため息のような声が聞こえた。慎重に足をかけて最後の一段を登り切り、屋根の上へと出てくる。
 砂を散りばめたような満天の星空が広がっていた。
 ここ数日、毎日のように訪れていた場所だというのに、これまでで一番空が広く見えた。無意識に視線が星と星をつなぎ、星座の名前を浮かび上がらせる。あれははるか先の空中に浮かぶ石ころで、空の向こうにもあらゆるものが続いている。ただ、ヒースにとってはここが中心だった。

「分かってたのか?」

 隣で足を投げ出して座るクレイがこちらを見ずにそう言う。黙っていると、彼はまた口を開いた。

「正直、明日にでも発とうと思ってた」
「そうなの?」

 予想していたことでもあったが、改めて言われると無意識に反応してしまう。クレイは小さく笑い、ヒースを見た。

「今朝、知らないうちに廊下を歩きまわってたみたいでさ。あまり時間がないらしい」

 目を背けたい現実だというのに、クレイの声があまりにも澄んでいて、明日の作業の話でもしているようだった。心はずいぶん落ち着いていて、服の上からハンドガンの感触を確かめる。

「これ」

 グリップのざらざらした部分を手のひらに感じながらクレイの前に差し出す。彼は一瞬驚いたように銃とヒースを見比べ、拍子抜けするように体の力を抜いた。その様子にヒースは得意げになる。

「探してたんだろ」
「……ああ」
「謝ったくせに」
「それはそれだ」

 銃をクレイに渡すつもりはなく、月明かりをぼんやり反射するそれを見つめた。こんなものが自分の手の中にあるのが、いまだに不思議だった。

「俺に」

 言葉が詰まる。一緒に逃げだしたあの日、森の中で動かなくなったクレイの姿を思い出していた。

「俺に撃たせてほしい」

 ヒースは顔を上げる。目がまともに見れなくて、クレイの後ろに広がる星空を気休めのように眺めた。オレンジ色の髪は黒く滲んでいて、星空と一緒になってしまったようだった。

「頼む手間が省けたよ」

 クレイは言った。一瞬だけ瞳が揺れて、視線が重なる。彼は意地悪そうな顔で笑って立ち上がると、ヒースに手を差し伸べる。

「自分でやると変なところを撃ち抜きそうだしな」
「俺の射撃の腕はひどいけど」
「もちろん信じてない」

 ためらいもなく言い放たれた言葉にショックを受ける。ただ、クレイの言葉に遠慮がないのはいつものことだ。これまでで最もひどい出来事と向き合っているというのに、やっと日常が戻ってきた気分になる。手を取って立ち上がり、ふたりは向き合った。

「支えるからさ。うまくやれよ」

 クレイの手が、銃を持つヒースの右手に触れる。銃口がゆっくりと持ち上がり、左目の前までやってくる。ヒースはグリップを両手で握り、クレイはヒースの手首にそっと手を添えた。支えるというより、確かめるような仕草だった。

 静かな夜だけがふたりを見ていた。感染者の死体の香りも、今日はずいぶん遠くに感じる。ヒースはクレイの瞳をまっすぐ見据えた。その目じりに微かに皺が寄るのを瞼裏に焼き付けるように目を閉じる。

「それじゃあ、またあとで」

 クレイの声を聴いて、目を開ける。
 息を止めた。