花人間のカルテ――解釈について


 扉を開けて最初に目に入ったのは黒とオレンジ色だった。
 クレイはいつもの上着に身を包み、エディが渡したマフラーを首に巻いている。慌てて飛び込んできた友人二人の姿を、彼は落ち着いた様子で眺めていた。
 エディは目だけで部屋を見渡す。彼の部屋はいつも片付いているというのに、机の上だけが物であふれていた。使い古されたリュックがやけに目を引く。

「イライザに何か言われたの……?」

 そうとしか思えなかった。左目の話はまだしていないと言ったはずだ。エディは祈るように彼の目を見る。クレイは顔を背け机の方へと向き直った。

「ああ。化け物になるのは時間の問題らしい。ぼくは出ていく」

 まだ知らない。その事実に安堵している自分に気づいてエディは愕然とする。一呼吸遅れたエディに代わり、リュックに手を伸ばそうとするクレイの前にヒースが慌てて飛び込んだ。

「そんなわけない。きみはクリーチャーにはならない! 俺たちが何とかするから……」
「もう決めたんだ。ぼくは行く」
「エディ!」

 まるで縋るように名前を呼ばれ、エディは視界が揺れるのを感じた。気づけば後ろからクレイの腕を掴んでいた。

「クレイ。お願いだからここにいて」
「いいや、だめだ。ここにはいられない」
「じゃあ俺も行くよ! 一緒に行く!」

 怯えた表情のまま叫び、ヒースはリュックを取り上げて後ずさる。取り乱す友人たちを交互に見つめ、クレイは困ったように笑った。エディの手からすり抜けるように、クレイの腕は離れていった。

「馬鹿言うなよ。お前が付いてきたってどうせ途中で一人になるんだぜ」
「そんなこと言わないでくれ」
「お前はここに残って仲間たちを守ってほしい」

 まだ何かを言おうとするヒースに向かってクレイは手を伸ばす。その手がそっと肩に添えられた。

「お前ならできるよ。ぼくにはできないことだ」
「できない。きみがいなきゃ俺は何も……」

 一度決めたらやり遂げるクレイの性質を理解しているからこそ、もう引き返せない場所にいることが分かった。最も失いたくなかったものが目の前で崩れていく。それをどこか遠くの出来事のように感じながら、エディは考える。

 ――いつから間違ったんだろう。

 一つ思い当たれば、また一つが思い当たる。クレイのハンター探しを手伝ったことも、ヒースと秘密を抱えたことも、これまでやってきたことのすべてが間違いだったように思えた。

 ――ぼくがいたら何もうまくいかない。

「ひとつだけ方法を教えてもらった」

 頭によぎった真実を否定するように言葉が零れていった。ふたりの視線が吸い寄せられる。感覚が麻痺しているのか、エディは随分透き通った気分だった。クレイの目元が少しだけ赤くなっていることにそこで気づく。ヒースの香りが鼻先をかすめていく。

「ウイルスが脳を浸食する前に、左目を撃ち抜くんだ。うまくいけば、クリーチャー化は止まる」
 
 この馬鹿げた選択肢についてふたりがどう思ったのか、エディに知る術はなかった。怒るような気もしていたし、冗談だと笑ってくれるのならそれでもいい。ただ現実は静かで、この世界が終わることもなかった。外で強い風が吹いたのか、窓が揺れ動く音がする。

「お願いだから待っていてほしい」

 エディの声は震えなかった。それでも、全身を巡る痛みから逃げるように片手で顔を覆い、確かめるように言葉を繋ぐ。

「僕がイライザと一緒に行って、別の方法を見つけてくるから。それまで待っていてほしい」
「……なにもせず、ここにいろって?」
 
 恐る恐る顔を上げれば、クレイと視線が重なる。拒絶するその膜のようなものが消える代わりに、ヘイブンでの退屈な作業を終えた後のような、穏やかな顔をしていた。クレイはベッドの位置を確かめてゆっくり腰を下ろし、それを見届けたヒースはリュックを床に置く。

「きみは帰らない。ぼくらも待たない」

 クレイは言った。突き放すような言葉であるのに、優しく、どこか慰めるような響きがある。
 
 だめだったのだ。

 そう思った刹那、自分の役割から逃げ出してここにたどり着いた日のことをエディは思い出す。散弾銃を地面に投げ捨て、その重みが消えると同時に、別の何かも消え去ったような気分だった。何かが欠けた分、体は軽くなるのだ。
 どれだけ選択肢が増えようとも彼らに選ばせることなどできない。最初からそうだった。誰も思い通りには動かないし、望みはいつも叶わない。だからこそエディにとって、彼らは輝いて見えたのだ。

「ここで別れよう。運が良ければ、またどこかで会えるさ」

 クレイの言葉は不思議と気休めには聞こえなかった。そうあってほしいと願うことは、この世界の誰も邪魔をしない。