胸騒ぎがしていた。
エディは足早に廊下を進み、靴底が床を擦る音にできるだけ意識を集中させる。
ヒースがイライザを呼びに来たらしい。クレイに何かあったのかもしれない。自分ではなく彼女を呼びに来たヒースについて、少なからず落胆していることには気づいていた。余計な考えを払うように茎の髪をかき上げる。
――目を覚ませ。
何度も言い聞かせてきたその言葉が頭に響き渡っている。ようやくやるべきことを思い出せたのは昨日の夜だ。クレイを背負ったときの重みがまだ微かに残っている。
朦朧とした意識の中で、彼は行かないでくれと言った。十分すぎる言葉だった。
――ふたりが一緒にいてくれればそれでいい。
エディは医務室への廊下を歩きながら、朝日の中でヒースとここに座り込んでいたあの日を思い出す。神経をすり減らしてうんざりしていたというのに、まるでひとりの友人として彼の隣に居られたことが嬉しかった。
クレイの言葉も、ヒースとの時間も、きっと誰かが用意してくれたご褒美だったのだろう。彼らの友情を守ろうと空回りしていた自分に与えられた最後の日々だったのだ。
頬が引きつる感覚があり、エディは片手でそれを押さえた。できるだけ表情が歪まないよう深く息を吸いながら扉を開ける。
目に入ったのは空のベッドだった。その横に、背もたれにだらしなく寄り掛かったイライザの姿がある。彼女は憂鬱そうに首を傾げ、エディを見た。
「彼ならいないわよ」
「どこに行ったんだ?」
いつものように肩をすくめる。態度から察するに、クレイの容体が悪化したわけではないらしかった。ただ、胸騒ぎは消えない。クレイだけでなく、ヒースの姿がないことも気になった。
日差しに目を細める彼女は疲労が滲んでいるように見える。同行についての話をしたかったが、まずはふたりの姿を確認したい。エディが踵を返して廊下に出ようとした時だった。その背中にイライザの声が飛んでくる。
「話しておきたいことがある」
やけにもったいぶった口調に、血液がじっくり足元へ下がっていくような感覚がやってくる。踏み出しかけた足は重くなり、ドアの取っ手に触れたまま動けなくなった。
「あなたたちが見つけた、蔓に絡まった花人間についてよ」
やめてくれと叫ぶのを喉元でせき止める。エディはその指先が微かに震えるのを眺めた。
花人間が燃えていくあの夜の炎が忘れられない。イライザは、クリーチャー化を止める方法はないと頑なに言い放った。その言い分全てを、あの炎が肯定していたのだ。
「……ひどい死に方があるってだけだろ」
顔を猟銃で撃たれても死ねなかったのだ。燃やすしかなかった。そんな惨憺たる末路について知る必要はない。
「いいえ」
イライザは否定した。自然と視線が彼女に吸い寄せられ、気づけば両腕がだらりと垂れていた。エディは体の半分ほどを彼女に向け、その怯えた瞳で言葉を待つ。
「花人間がクリーチャー化を起こすとき……最初に心停止が起こる」
「……死ぬってことだろ」
「人間の基準ではね。けれど、稀にその状態でも植物が体を生かし、正気を失わない個体がある。もちろん、ウイルスの進行は続くから……脳機能を奪われればお終いだけど」
彼女の苦々しい表情はこれまでも何度か見てきた。その理由がここにあったのだとなぜかそう思う。何一つ覚悟もできていないエディの前で、その罪悪感にさいなまれたような顔で口を開く。
「つまり脳まで奪われる前なら……クリーチャー化の進行を断てる可能性がある」
エディの脳裏に燃やした花人間の姿が蘇る。ランプに照らされた瞳が亡霊のように浮かび、その横に大きく開いた穴があった――同時に、なぜか吹雪の情景が浮かぶ。
白くかすんだ景色の先にいた紫色の花人間の目は虚ろで、服は血で汚れていた。その顔の欠損と、燃やした花人間が重なる。
そういえば、あの吹雪の日に遭遇した花人間は、左目が潰れていなかっただろうか――
「左目……?」
「そう。腐りかけの花人間も、左目がなかったでしょう」
「馬鹿げてる……そんなことをして生きられるわけが……」
「心停止した花人間なら話は別。体は死んでいるから出血はほとんどないし、崩れた体は蔓が補う」
「待てよ……あの紫色の花人間も顔に傷があった……あんたが撃ったのか?」
「ええ。もちろん、同意を得た上で」
「同意したら化け物にしてもいいんだな」
散弾銃で頭を吹き飛ばしたあのクリーチャーに対して罪悪感が湧くとは思わなかった。エディは憎々し気に彼女を睨み、その表情で責め立てる。
「否定はしない。けれど、何もせずともいずれクリーチャー化して死んでいた。それに紫色の彼は心停止はまだだったから条件は違う」
「……なにが、言いたいんだよ」
「あなたの友人は既に心停止している。だから……やる価値はある」
ここにあのふたりがいなくて良かったと思うと同時に、あまりにも重すぎる秘密をまた抱えることになり、床が大きく揺れるような感覚に襲われる。気づけばエディは片手で顔を覆っていて、朝の静けさにも消え去りそうな小さな声がその隙間から漏れていった。
「お願いだからふたりには言わないで」
言葉にした瞬間、不満そうな顔で隣り合って座るふたりの姿がエディの脳裏によぎる。呼吸ができないほど胸が痛み、うつむいたまま顔があげられない。
クレイが左目を撃ち抜き、それをヒースが見届けるなど、考えるだけでも耐えられなかった。
「どうして僕に話をしたの」
「……選択肢を与えないほうが、残酷だと思ったから」
「こんな話をふたりにしろって言う方が残酷じゃないか!」
「そうね……わたしから話すべきだわ」
「話さないでと言ってるだろ!」
これまで張り付けていた虚勢が崩れていくようだった。剥き出しになった本心を彼女の瞳が射抜く。顔が歪んでいくのを止める術をエディは知らなかった。
「よく聞いて。撃ち抜くのは左目というよりその奥よ。植物が脳へ伸びる経路を断つ。外傷では死ねない生物になるけれど、変わらず動けた個体を一つ知ってる。オレンジの彼のように、心停止していた花人間だった」
「もう何も知りたくない! 僕はあんたと行く! 行って、別の方法を見つけてみせる……あのふたりがそんなことをする必要なんてない!」
「エディ」
初めて名前を呼ばれ、激しく動揺したせいで言葉が詰まる。その瞳は今まで出会ってきた大人たちとは異なり、子供を諭すような柔らかい光を蓄えていた。二人は対等ではなかった。抱いたそれがあまりにも安堵に似ていて、エディは愕然とする。
「花人間は植物と同化してこそ生きていける。切り離すことはできない」
ウイルスを解明することと、花人間のクリーチャー化は別物である。ふと、イライザの言葉を思い出した。彼女は最初から事実を語っていた。
「ぼ、僕が……彼らの役に……」
苦し紛れに零れていった言葉が喉を締め付ける。最後にかけようとした望みですらふたりには追いつかない。エディにとって役割というのは、砂を固めるための水のようなものだった。
「最初から意味なんて」
崩れ始めた何かが言葉を押し出した時だった。扉を隔てたその向こうから名前を呼ばれた気がする。エディは無意識に手を伸ばして扉を開けた。
「エディ!」
初めて聞くような切羽詰まったヒースの声に足が勝手に動き出す。空っぽの体だけがふらふらと揺れながら視線だけをさまよわせ、廊下の先から駆けてくる白い花弁の彼を見つける。
「エディ、来てくれ! 俺、もうどうしたらいいか……く、クレイが」
クレイの名前を脳が拾い上げた途端、血の気が引いていくのが分かった。呆然としているエディには構わず、ヒースはただその腕を引く。触れられた途端に伝わってきた体の震えのおかげで、ようやく目の焦点が合う。
「クレイが、一人で出ていくって言うんだ、そんな、そんなの嫌だ……エディ、俺」
「彼はどこ?」
「へ、部屋だよ……何言っても、それで、俺……き、きみしか」
小屋でパニックに陥ったときとはまるで違う、あの時以上に取り乱す彼を案じ思わず手を取る。頭が冴えるほど冷たい手だというのに汗が滲んでいた。灰色の瞳は微かに揺れ、その視線から不安や怯えのすべてが伝染するようだった。
「行こう」
自分を奮い立たせるよう、できるだけ大きな声を絞り出す。少しだけ正気を取り戻したらしいヒースは何度も頷き、クレイの部屋に向かって二人は駆けだした。
