花人間のカルテ――解釈について



 夕食の後は調子がいくらか戻っていた。少なくとも、起き上がって歩いたくらいで息は上がらない。だんだんと消えていく声を聞きながらその時を待ち、暗闇の中でベッドから抜け出す。
 あの場所に行くべきだ。
 椅子にかけたままにしていた上着に手を通して、マフラーを巻き直す。上着のポケットに入れた猟銃の弾丸は三発。心許ないが、外さなければいいだけだ。
 出来るだけ音が出ないようにそっと扉を開ける。部屋に寄るつもりはなかった。どうせ地図はエディが持って行ったままだろう。目を暗闇に慣らしていたおかげで、明かりのない廊下でもある程度の位置は分かった。月明かりもないそこを、壁に手をつきながら進む。
 こんなふうに抜け出すのはとても久しぶりだ。ここに訪れたばかりの頃は退屈で仕方なく、ヒースを連れ出してよく星を見に行ったけれど――観測所に感染者の死体を見つけて、あいつは行くのを嫌がるようになった。

 ――ぼくらのものを取り上げるやつらが、この世から消え去ればいい。

 冷え切った外の空気がマフラーを通して体に入る。倉庫の出入り口に一番近い猟銃を手に取って、いつもの抜け穴からコミュニティの外へ出た。見上げた空は黒いままで、星が見えないから、分厚い雲に覆われているんだろう。
 猟銃に弾を込めながら歩く。その鋭い音は自分がどこにいて何をしようとしているのかを知らせるのか、頭は次第にはっきりしてきた。これまで何度も見てきた地図は頭の中にある。エディが指差した場所は特に気になっていた場所だから、辿り着ける自信はあった。
 久々に動かした筋肉が収縮するのが心地いい。少しずつ上がる息を静かに聞いていると、離れたところから音がして顔を上げる。猟銃の引き金に指を添え、周囲を見渡した。
 警戒は長く続かなかった。振り向いた途端、ぼくの視界に見慣れた背の高い姿が現れる。

「……きみか」

 エディは肩を上下させていて、ここまで走ってきたのだと分かる。追ってくることを予想できなかったわけはないのに、なぜか落ち着かない。

「僕が見つけきれなかったらどうするつもりだったの」

 言われて、マフラーをもらった日のことを思い出す。見つけやすいと言っていたこの髪は、彼の茎の髪と同様暗闇に沈んでいた。

「やるべきことをやるだけさ」
「……クレイ」
「なんだよ?」

 黙り込んだエディに苛立ちを覚える。ただ、その先はあまり聞きたくなかった。俯いたままだったその顔が上がると、いつもの困った表情が現れる。

「僕も行くよ」

 彼の表情は雄弁に見えてそうじゃない。真意も言うべきことも分からず、背中を向けて葉擦れの音が聞こえる先に歩き出した。その横を彼が早々と過ぎていく。

「ここ、方向がわかりづらいんだ。僕についてきてほしい」
「……分かったよ」
 
 猟銃をいつでも撃てるように持ち直しながら、その後ろをついていく。ヒースの姿がないから、彼には黙ってぼくを追ってきたのだろう。

「イライザは、クリーチャーよりも蔓まみれの花人間を警戒してるみたいだった」
「……きみらが見つけたそいつは死にかけてたんだろ」
「たぶんね。彼女も、それなら危険はないと言ってた」

 以前のような会話が耳によく馴染む。危険はなくとも調べる価値はあると、エディも同じことを考えているようだった。
 ふと、遠くから水の流れる音がする。川があるということは、目的地も近いはずだ。

「……もうすぐだよ」

 少しだけ振り返った彼と目が合う。一度訪れたことがあるというのに、その表情には緊張が滲んでいた。猟銃を握る手の力が強くなる。
 視線の先にログハウスが見えてきたのはすぐだった。随分手入れされているように見えたけれど、近づけばその外壁は好き放題痛んでいることが分かる。開いたままの扉は、彼らが訪れたときの状態なのだろうか。

「先に中を見てくる。きみは外を見張ってて」
「ああ」

 小屋の入り口を背にして周囲を警戒する。エディが深く息を吸う音が小屋の暗闇に消えていくようで気が気ではない。外と小屋の中を何度か視線が行き来したあと、中から自分を呼ぶ声がした。
 入ると、感染者の死体から漂う甘い香りがした。その暗がりの先に、エディの姿が見える。彼の手にはランプがあった。

「……あの奥の部屋だよ」

 開け放たれた奥の扉から、一層強い香りが漏れてくる。死体の香りよりも少しだけ柔らかい、花人間の匂いに近かった。
 踏み出すたびに床が軋む音を聞きながら、奥の部屋へと入る。緊張しているのか、いつもより音に敏感になっていた。夜よりもずっと真っ暗なその部屋では、かすかに人の気配を感じる。これは……息づかいだろうか。
 金属を打ち合わせるような乾いた音がした途端、目が眩むほどの灯りに思わず手で顔を庇うようにする。エディがランプに火を灯したのだ。合図くらいしてくれと言おうとして、やめた。その揺れる灯りが壁にへばりつく人型の何かを照らしている。

「なん……」

 火が揺れるたびに、それから伸びた蔓の影が蠢くようだった。エディはランプを顔の高さまで上げ、その壁をさらに照らす。
 花人間だ。橙の灯りに染まったそいつはぼくたちと同じような奇妙な髪をしていて、身体中の皮膚を突き破る蔓に絡まっている。その間からだらりと伸びる腕は腐りかけていて、形を蔓が補うように覆っていた。

「……本当だったのか」

 無意味な言葉が溢れていく。彼らの言葉を疑っていたわけではない。だけど、こんな光景を想像できるわけがない。感覚が曖昧になった足を踏み出して、そいつに近寄る。

「クレイ、気をつけて……」

 静かだが強い声が後ろからして唾を飲む。慎重にそれの顔を下から覗き込むように見上げた。
 開かれた瞼の中にある眼球が灯りに照らされて鈍く光っている。それはどこも見てはいなかった。半開きになった口からも蔓が溢れ、そこから空気の通る音がする。視線をずらして胸辺りを見れば、そこはゆっくり上下していた。

「生きてる」

 自分の言葉が信じられない。これはまだ生きている。体が腐ってもなお、人間であることを保つように――いや、植物が人間に擬態するために、ただ生かされている。ぼくにはそう見えた。
 そしてなにより左目が。

「これ」

 喉が詰まって掠れた声が出る。その先を言わずとも、エディもすぐそばまでやってきて左目の部分にランプを近づけた。ぼくらは息を詰めた。その細い蔓が溢れ出たグロテスクなものよりも、重大なものがある。

「冗談だろ、これ傷じゃないか……?」

 そいつの左目部分は、明らかに外側から受けた傷があった。甘い香りを吸い込みながら横顔を注意深く見る。蔓に覆われて見づらいが、後頭部にも損傷らしきものがあった。

「見てくれ。弾痕みたいだ」

 すぐ後ろにいたエディは驚いたように目をみはり、ランプでそこを照らした。彼はしばらく観察した後、それから距離を取る。眉根を寄せ、ぼくを見た。

「……いつ撃たれたのかな」
「こうなった後だろ。そうじゃなきゃ、撃たれた時点で死んでるさ」
「そんなことする意味ある?」

 戸惑いと嫌悪の滲む声に辻褄の合わなさを理解させられる。こんな不気味な生き物にわざわざ近づいて、貴重な弾を無駄撃ちするやつがいるだろうか。いや、感染者にすら怯えて乱射する大男もいるくらいだ。あり得なくはない。

「……自分で撃ったんだろうさ」

 ぼくの言葉にそれは何の反応も示さない。こんな状態になって、最後の力で自死しようとしたのだろう。死にきれなかったこいつの、もう意思すらない表情が少しだけ哀れに見えた。どうかしている。

「……蔓から引きはがしてみるか?」

 決めかねているのが声にも滲む。エディの顔が少し強張ったようだった。念のためナイフを持ってきていたから、この蔓くらいなら難なく切れるだろう。
 動き出す可能性を考えて、まずは頭の周辺の蔓を払うことにした。ナイフを取り出すぼくに、エディは息をつめて何か言いたげだった。ただ、制止することはない。今は情報がもっと欲しいのはぼくと同じらしい。
 ランプを近くに寄せてもらい、注意深く顔を覆う蔓に触れる。思ったより弾力があるそれは生き物の感触に近い。力をこめて引き、ナイフの刃を当てがう。その瞬間、鋭い空気の音がした。
 見られている。
 先ほどまで虚ろに浮いていた瞳がぼくを見ていた。そいつは残った片方の目を見開き、口からあふれた蔓を咀嚼するように顎を動かしている。

「クレイ……!」
「何か話そうとしているのかも」

 肩を引いてくるその手を払いのけながら、ぼくはそいつの動きを観察した。耳をすませば、ぼろぼろの声帯を空気が抜けていくような音がする。口が開いたり閉じたりするのを眺めながら、もう声など発せないのだと分かった。ぼくはもう一度蔓を引き、ナイフの刃で抉るようにしてそれを断ち切った。
 そいつは何かを思い出したようにはっと天井を見上げる。かすかな隙間の中でその頭が左右に揺れ、唇が小刻みに震えだした。

「この蔓……感覚があるのか?」

 仮説を口にして気分が悪くなる。けれど、先ほどまで何の反応も示さなかったことを考えると、もう少しやってみる価値はある。
 今度は太めの蔓を手に取り、ナイフの刃をねじ込むようにする。後ろでエディが呼ぶ声がすると同時に、そいつは驚くべき速さで頭を振りだした。

「離れて!」

 その警告によろめきながら後ずさり、猟銃を構える。エディもランプを床に置いて銃を構えた。足元に沈んだ明かりがそいつを下から照らし続ける。すると頭を壁に何度も打ち付け、全身が蠢き始めた。いや、蔓自体が蠢いている。

「クレイ、伏せて」

 横から響いた鋭い声に、制止する間もなく金属音が鳴る。成す術なくぼくはその場で身を低くし、同時に銃声が轟いた。弾丸は確実にそいつの顔面に命中した。だが、信じられないことにそれはまだ動き続けている。ぶら下がった両腕が小刻みに震え、そこから新たな蔓が伸び始める。

「燃やそう」

 呆然とその様子を見つめていたぼくの頭上からエディの声が降ってきた。