イライザという女に会ったのはしばらく時間が経ってからだった。元々薄暗かった外はすっかり暗くなっていて、医務室には何度か大人たちが出入りしていた。ようやく落ち着いてきた頃、扉が開いて線の細い女がやってくる。
「はじめまして」
怪我をしていると聞いていたが、どうやら足が悪いらしい。松葉杖を支えにしながらじっくり椅子に腰を下ろして、その色素の薄い赤茶色の瞳がこちらを向く。
身長はぼくより少し低いくらいか。短い髪は洗ったばかりなのか少し濡れている。
「……あなたの経過はある程度聞いたけれど、いくつか質問してもいい?」
武器の類は持っていなさそうだった。重心を椅子に預けることはなく、すぐにでも立ち上がれるような隙のなさを感じる。医者というより傭兵みたいだ。彼女を警戒してなのか、エディはその後ろに立っている。
医務室にはぼくたち三人とイライザ以外は誰もいない。晴れてぼくも秘密を共有する仲間になれたらしい。
「これまでの症状の中で、一番自覚してるものはある? 例えば怠さだったり、熱っぽさだったり……何でもいい。直感で言ってみて」
「……熱かな」
それらしいことを答えた。正直に答えたところで何も分かりはしないだろう。黙り込んでいるイライザの視線はぼくから逸れない。
「そう。じゃあ――」
視界の下の方から女の手が上がってくる。少し離れたところに手のひらを見せるように差し出すところを見ると、こいつも警戒しているのだと分かった。
「腕を見てもいい?」
ぼくは黙って、シャツを捲って腕を出す。随分病弱そうな白い腕だった。彼女の眉がかすかに動く。
「少し触れるわね」
思わず手を引きそうになるが、イライザは差し出した空っぽの手以外を動かす気はないようだった。ぼくは返事の代わりに腕を差し出し、手首の部分に触れられる。
驚いたのは、女の手があまりにも熱かったことだ。息を詰めて顔を見れば、女はすぐに手を引いて目を伏せる。こいつもどこか悪いのではないだろうか。
沈黙がやけに際立つ中、イライザは松葉杖を使ってゆっくり立ち上がる。正直拍子抜けしていた。ただ、その慎重さが余計に胡散臭い。部屋に灯ったランプが女の影を引き延ばした。
「彼には、花人間のクリーチャー化について話してるのよね」
壁際に立っているヒースの元まで下がり、女は言う。ヒースは頷いた。
「……あまり良いとは言えない」
思わず笑っていた。そのやけに演技じみた声色も、あからさまにしかめられた顔も、何もかも鬱陶しい。
「たったあれだけで何が分かるって言うんだ」
ぼくの言葉に女は答えない。時間の無駄のような気がしてならないけれど、それこそこいつの存在がいかに不要か際立って良かったのかもしれない。
「……どうしたらいい?」
途方に暮れた声を上げるヒースには正直呆れてしまう。女が息を吐く音がここまで聞こえた。
「言えるのは……しばらく彼を隔離しておいた方がいいってことくらいよ」
「ふざけるなよ、人を化け物みたいに……」
気味が悪いほどに部屋は静まり返っている。二人はずいぶん無口だったし、女の言葉に反論すらしない。みぞおちあたりから血の気が引くような気分の悪い感覚が広がっていく。それが体の隅々まで広がるころには熱に変わっていた。
「……まだぼくに黙っていることがあるんだな」
発した言葉に怒りが湧いてくる。そばにいたエディを見上げると、そこには苦々しい顔があるだけだった。
「その女の情報にどれだけの価値があるって言うんだよ? ぼくよりもこいつが信じられるって?」
「そんなわけない。落ち着いてよ」
「取り乱してるように見えるか? ぼくは呆れてるだけだ。納得する方がどうかしてる……!」
エディの手が肩に添えられる。急に心細くなった。間違っているのはぼくの方だと言われている気がして目を見ることができない。
「二人で」
言葉にしかけて途切れる。今日はずいぶん調子が悪かった。こんな時に限って頭の回転は鈍いし、些細なことで信じられないほど動揺している。また意識が朦朧としてきて思わず額に手を触れた。この薄暗い空間にいると、眠りたくて仕方なくなる。
呆然と目を見開いたまま、ぼくは答え合わせをするように言葉を探した。
「二人で、話さないか」
瞳が揺れているせいなのか見えるものが滲む。それがゆっくり上がって、エディの顔までたどり着く。彼は壁の方を見ていた。
「頼むよ」
そういえば、以前にも似たようなお願いをしなかっただろうか。ふと、離れたところから扉が閉まる音がした。ようやくエディがぼくを見て、返事をする代わりに小さくうなずいた。
「少し横になれる?」
部屋を見渡せば、ヒースと女の姿はなくなっていた。途端に体の力が抜ける。促されるままに横になると、その固いベッドに吸い込まれていくような感じがした。
エディはそばにあった椅子に座って、前かがみになりながらこちらを見つめている。
「……きみに隠し事されるのは、あまり良い気がしないな」
軽口をこぼす余裕はあるのに、本気で傷ついているような情けない声で嫌になる。以前はぼくの前でよく笑っていた彼はずっと顔をしかめたままだ。その表情を見ていると、コミュニティにやってきた頃のエディを思い出す。
あの日、彼は肩から銃をぶら下げて呆然とコミュニティの入り口に立っていた。大人たちの間から見えたその姿に強い好奇心を抱いたことを覚えている。最初に何を話しただろうか。とても特別な日だと記憶しているのに、思い出すのは彼の困ったような笑い顔くらいだ。きっとくだらないジョークでも言ったんだろう。
「話すべきだって思ってたし、それが今になっただけだよ。全部真実だとは思ってないけど……クリーチャー化する花人間の花の色には特徴があるらしい。きみのオレンジ色もその特徴の一つだって。僕たちが見たクリーチャーも彼女の言う特徴の色をしてたから……そういう傾向はあるんだと思う」
「……ふん、どおりであいつが不安がってるわけだよ。そいつ、どうなったんだ? 死体があれば何か分からないかな」
「死んだけど……死体は見つけきれないと思う。吹雪のせいでどこを歩いているか分からなかったし、あったとしても……もう原形はとどめてないだろうから」
実際に姿を見る術はなさそうだった。鼻から息を吐きながら天井を見上げる。
クリーチャー化しやすい花の色。それに自分が含まれていることについてはあまり驚かなかったし、むしろ彼らの慎重すぎる物言いにやっと納得がいって気が軽くなる。ウイルスに侵されるリスクが高い個体があるだけの話で、確実にそうなると決まったわけではない。
「それから、もう一つ」
言いながら、彼は上着のポケットから見覚えのある紙を取り出した。広げる途中でぼくの持っていた地図だと分かる。彼がこれを持ち出すことは予感できたのに、実際にバツが増えたものを目のあたりにすると、喉の奥が痛んだ。
「残りのマルについて調べたんだ。一番気になったこの場所を昨日見に行って、自分の体から生えた蔓に絡まって死にかけてる花人間を見つけた。イライザはその症状についても知ってるみたいだった」
「は、なに? 一人でそんな危ないことをしてたのか?」
「……ヒースも一緒だったよ。とにかく僕らは、もうきみ一人でハンター探しをさせる気はないし、三人で一緒に考えた方がいいと思ってる。イライザを連れてきたのは、彼女の情報が少しでも役に立つかもしれないと考えたからだよ。たとえあいつが悪者だとしても、感染者だらけのこの場所でリスクを冒すような真似はしないだろうから」
また視界が揺れるようだった。ぼくよりヒースを頼ったのはどうしてだ? そんなどうでもいい言葉を喉元でせき止めながら、何度か息を吸う。今重要なのは、クリーチャー化の情報だ。胸がざわつくような感覚が邪魔で仕方ない。
「その花人間は、まだ生きてるのか?」
「たぶんね。ただ、放っておくのも危険だから……大人たちにどう説明するべきか考えてる」
「いや、ぼくときみで調べよう。花人間がどんなクリーチャー化を起こすのか」
「駄目だよ。きみをあんな場所に連れていきたくない。あれは本当に……」
「三人だけでも混乱してるっていうのに、大人たちがクリーチャー化の話を知ればこのコミュニティはお終いだろ。でも誰かがやらなくちゃいけない」
エディの目が細められる。その誰かはぼくではないと言われるような気がして思わず目を逸らしてしまった。
「きみはヒースと一緒にいてほしい」
まるであの女と行くと言われているようだった。突き放すような抑揚のない声に、ぼくは何も言えない。
「きみの言う通り、イライザから情報を引き出すよりも、あの花人間を調べた方が早いかもしれない。彼女はきっとまだ何か隠してる。クリーチャー化を避ける方法はあるはずだよ」
椅子の脚が床をこする耳障りな音がしてエディが立ち上がる。薄暗い部屋のもっと暗い先に進んでいく彼の背中を見ながら、どうしてこんなことになったのか考えていた。
彼はあの人間に利用されているのだ。茎の髪を珍しがって、ウイルス解明のためなんて大義名分をちらつかせて、彼の責任感をもてあそんでいる。
そんなことが許されていいわけがない。
