今にも崩れてしまいそうな両足で走り続ける。ぬかるんだ地面の感触はあの蔓をいつまでも連想させ、そのたびに悲鳴を押しとどめるので精一杯だ。
エディは俺の腕を離さなかった。湿った森の空気が正気を呼び戻し、その手が震えていることに気づく。急に息苦しさを覚え手首がひどく痛んだ。
「止まってくれ……!」
このままだと窒息しまう。それに、エディの様子もおかしい。今は彼の方がずっと動揺してるように見えた。
「エディ……」
「生きてたんだ!」
押し殺したような叫び声に一瞬思考が止まる。手を離されたその勢いで膝をつきそうになるのを何とか堪えた。エディは背中を丸め両手を膝についてなんとか息を整えようと呼吸を続けている。先ほどの言葉をまだ理解できないでいる俺の前で、彼はゆっくり体を起こした。
「生きてたんだ……、あの、感染者……まだ生きて……」
途切れた言葉を繋ぎ、とうとう彼は顔を覆って呻き声を上げた。
立ちくらみがしてすぐそばの木に寄りかかる。手首の痛みだけがこれを現実だと教えていた。
「あ、あり得ない。だってあいつ……ひ、左目が……」
光景を思い出した途端に森の中の様々な気配が俺めがけて襲ってくる。追ってくるものなどないというのに、周囲を見渡さなければ気が済まなかった。もうたくさんだ。
「……いや、間違いなく呼吸してた」
「そんなわけないだろ?! あんな状態で――」
「それにあいつ……花人間だったんだ」
地面の感覚がなくなる。彼の言葉に気が狂いそうだ。すっかり自分を支える力もなくなり、座り込んで両足を抱きしめるようにしてうずくまる。
不気味なほどに静かだった。だからこそ余計に、置いてきたあの死体が意識の中に残ったまま離れない。いや、エディはあれを死体ではなかったと言う。そしてそれが花人間だったとも――。
「帰ろう」
自分よりも大きな手が差し出される。震えているその向こうにエディの顔があった。怯えた顔が助けを求めるようにも見えて、体の軸が大きく揺らぐ。臆病が言葉を押し出した。
「こんなところ……来るべきじゃなかった……」
今更何を言っているのかと馬鹿馬鹿しくなる。ただ、エディはその弱った顔で何度も頷いた。掴んだ彼の手は冷たい。
俺と一緒にいるのがクレイじゃなくてよかった。
「クレイをどこにも行かせたくない」
彼の名前を言葉にした途端に涙が溢れる。エディも息を詰め、その顔が伏せられる瞬間に水滴がこぼれていった。
死んだように静まり返った森の中にすすり泣きが吸い込まれていく。俺たちは最後まで話をしなかった。その沈黙が心強いと初めて思った。
◇
夜が明け、窓の外は白く霞んでいた。いつまでたっても食堂に出てこない俺を心配して何人かが呼びに来たけれど、食事する気力はない。ヘイブンの朝は何も変わらず、仲間たちの騒がしい声は幻聴のようだった。
俺は部屋を出た。狭い空間はそれだけでも気が狂いそうになる。向かう場所は決まっていた。
医務室の扉をそっと開けると隙間から温まった空気を感じてほっと息を吐く。
珍しくクレイはまだ眠っていた。その香りが鼻をかすめるのと同時に、ベッドの真横に置かれた椅子にエディがいることに気づく。彼は夜の格好のままで、項垂れてゆっくり呼吸している。眠っているようだ。
きっと小屋から戻ってすぐにここに来たのだろう。できるだけ音が響かないように扉を閉め、別の椅子に座る。温まった部屋と、クレイの香りが心地よい。こんなにも穏やかな場所なのに、エディの茎の髪はあの蔓を、クレイの香りはあいつの死体を思い出させる。
俺が見る世界は全部変わってしまった。
ただ、クレイがゆっくり呼吸を続けているのを見れば何もかもどうでもよくなる。俺は目を閉じた。
「ヒース」
クレイの声だ。顔を上げると、彼は目を覚まして上半身を起こしていた。何の音もしなかったことに驚いていると、その向こうにエディの姿がなくなっていることに気づく。どうやらあの一瞬で眠りに落ちてしまったらしい。
「なんだか疲れてるみたいだな」
困ったように微笑むクレイを見ると喉の奥が苦しくなる。返事の代わりに首を左右に振った。
「エディもきみも……あの吹雪の日から変じゃないか?」
当然、彼も何かを感じていることだろう。訊ねられ、後ろめたさ以外の感情が喉元まであふれ出している。このまま吐き出してしまいたい、そんな誘惑を振り払いながら唾をのんだ。それでもクレイの瞳はこちらから離れない。
「昨日、狩りに行ったんだろ」
「……聞いたのか?」
「ああ、みんな無駄話が好きだから」
その視線には怒りを感じない。エディと二人で単独行動をしていたことは知らないようだった。それにほっとしているということは、まだ彼に打ち明ける度胸がないのだろう。
「エディはいつも通りだった?」
「……知らない。彼と狩りに出たこと、なかったし」
嘘ではないけれど、秘密を抱えすぎた俺の言葉はあまりにも薄っぺらく感じる。
「最近、彼と話をしないからさ……心配なんだ」
「エディならさっきまでここにいた」
「本当に? ……起こしてくれればよかったのにな」
窓から差し込む光を眺めながら彼は言う。その微笑みが寂しそうなのが印象に残った。
エディの話をする彼に苛立っていたことが懐かしい。
あの鬱陶しい毎日にはもう戻れないんだろう。
「……作業に行ってくる」
今日は何の言葉も追ってこなかった。後ろ手に扉を閉めて、長く息を吐き出す。陽の光の線が空中に伸びて、細かい埃が雪の結晶みたいに漂っているのを追えば、少し離れた廊下の先にエディを見つける。
頭を伏せたまま両足を投げ出して座り込む姿は、彼をよく知らない俺でも、ずいぶん参っているのだと分かった。歩み寄って声をかける。
「あの小屋は……大人たちに伝えるのか?」
彼はゆっくりと顔を上げる。細められた目には疲労が滲んでいて、気の毒に思えた。
エディもクレイと同じだ。
いつも俺の先を歩いて、引っ張ってくれる。昨日の夜も、彼が俺の腕を引いてくれなければきっと今もあそこから逃げ出せていないだろう。
隣に腰を下ろし、二人で並んで足を投げ出す。陽の光が滲むように浮かんでいて、現実と夢の間にいるみたいだった。しばらく沈黙に身をゆだねる。微睡に意識を手放したくなった頃――エディが口を開いた。
「そうするべきだと思う。けど……あれを見れば、花人間が迎える最低な最期をみんなが知ることになる」
「……本当に花人間だった?」
「うん。色は分からなかった。でも、人間の髪と見間違えようはないから」
エディの声には抑揚がなかったが、その代わりてきぱきと話をした。言葉は理性的なのに、感情がどこにもないような痛々しさがある。ただ、黙って話を聞き続けるわけにもいかない。
「じゃああれは、紫色のあいつみたいに……クリーチャー化した花人間?」
「さぁ……自分の蔓に絡まる間抜けなクリーチャーも見たことないし」
「あいつの姿はおかしかった。あの左目も……それに、文字が……」
「文字?」
俺は頷いた。月明かりに浮かんだあの黒い文字は、きっと血で書かれたものだろう。なぜかそう思う。
「もうすぐそこに行くって、書いてあった」
「……気味が悪いね」
「ああ。あの感染者が書いたんだろうけど」
それは願望でもあった。花人間がクリーチャー化する現実を受け入れたわけではないけれど、あの小屋に他の誰かがいたとは思いたくない。
ただ、あの感染者が書いたとして、あいつはどこに行こうとしていたのだろう。
「……彼女は何か知ってるかな」
俺の言葉にエディが俯く。彼女の情報には期待していないのだろう。だけど、俺はそうじゃなかった。
「クリーチャー化を止める方法はないと言ってたけど、あの異様な姿については知ってるんじゃないか? クリーチャー化についてもっと知るチャンスかも」
「正直、あの女を信じていいか分からなくなってる。……あの場所をあいつが選んだのも、偶然じゃなかったとしたら?」
「あの感染者に彼女が関わってるって?」
「……かもね」
少しずつ心細さを感じ始めた。エディの声は相変わらず淡々としていて、突き放されているような気分になる。
こんなときでも俺はひとりだと何も決められない。それでも――大事なものは失いたくない。
「イライザを……コミュニティに連れてこよう」
選択肢を口にすることがこんなに緊張するものだとは思わなかった。長く息を吐きだし、エディを見る。彼は眉根を寄せて不機嫌そうな顔をしていた。
「どこまでの情報を仲間たちに共有するかは彼女に委ねる。それで……クレイの状況についても、彼女に直接診てもらう」
「クレイがそれを受け入れると思う?」
「俺が」
喉が狭くなって言葉が途切れる。あの温かい部屋で退屈そうにベッドに座る彼の姿が見えた気がした。
「俺が……彼に話すよ。これまでのことも、彼女のことも。クレイなら分かってくれる」
「それは……」
エディの顔に不安が滲んだ。無理だと言われている気がしたけれど、何もしないわけにはいかない。クレイの体調はまだ回復しないし、回復したとして彼をあの小屋に近づけさせるわけにはいかない。
「俺がやらなきゃいけないんだ」
無意識にこぼれていった。言葉とは裏腹に心はどんどん弱気になっていく。ふとエディが動く気配に顔を向ける。彼の表情は、疲れが滲んでいるとはいえ、ようやくいつも通りの落ち着いたものになっていた。以前の俺が感じていた威圧感はどこにもない。
「……ヒースならできるよ」
根拠などないというのに、その言葉がどれほど俺の背中を押すのか彼は分かっただろうか。昨日の夜、差し出された手を思い出す。俺は立ち上がって、恐る恐る彼に手を差し伸べた。
「エディにも手伝ってほしい」
彼は迷わず俺の手を取った。相変わらずその視線は同じ位置にないけれど、エディは俺をまっすぐ見てくれた。
