クレイが体調を崩してから、ヘイブンは静かになった気がする。
夜の中に沈んだ廊下の先に夕焼けみたいな明かりが浮かんでいる。医務室からの明かりだ。クレイはまだ起きていて、読書でもしているんだろう。
彼は昔から本が好きだった。頭が良くて物知りな彼が星を教えてほしいと言ってくれた日は、俺の人生の中で最も好きな瞬間だ。
深く息を吸ったあと、クレイのいる場所とは反対方向に歩き出す。彼の髪と同じ色をしたあの明かりがしばらく瞼の裏に残った。上着の内ポケットにいれたハンドガンの感触が脇腹に当たることはまだ緊張するけれど、少しずつ慣れてきている気もする。それを寂しいと思う。
エディは部屋の前に立っていた。先に支度を済ませていたのか、彼はすでに猟銃を担いでいる。目が合うと頷き、いつものようにコミュニティの外へ出た。俺よりもずっと手際がいい。いつものようにその背中を眺めていると彼が振り返った。
「弾はなんとか準備できたよ。もし危険があれば撃つから、できるだけ近くを歩いてほしい」
「準備したって……いつ?」
「今日の狩りで数を誤魔化した」
そういえば、彼は珍しく見張り役ではなく猟に加わっていた。まさかそれに理由があるなんて考えもしなかった。
改めて、自分がどこに向かおうとしているかを自覚する。安全区域の外であり未知の場所――丸腰で観測所に向かうのとは訳が違う。
「……君の邪魔にはならないようにする」
苛立ちよりも苦々しさの方が勝って、俺はいつもより彼の近くを歩いた。良くも悪くも空は晴れていて、憂鬱さを払うようにそれを見上げる。
ふと、エディの歩く方向がずれていることに気づいた。
「なぁ、少し方向が違ってる」
できるだけ小声で声をかけると、エディは俺と手元にある方位磁石を何度か見比べた。
「いや……合ってるよ。ほら……」
遠慮がちに方位磁針を見せてくる。覗き込めば、確かに針が指す方角と進行方向は一致していた。少しだけ弱気になるけれど、人が作ったものより自然の道具の方が俺は信用できる。
「あれ、北極星があそこにあるだろ。それでいくと、地図の方向はもう少し右になる」
返事がないことに、余計なことを言った気がしてならない。とはいえ、クレイが教えを乞うたこの知識については……なぜか自信が持てた。
「……すごい」
エディがこぼした言葉はよく聞き取れた。俺は驚いて彼の顔を凝視する。
「たぶん、この辺じゃ地盤のせいで磁気が狂うんじゃないかな……助かったよ」
「別に星の位置なんて大したことじゃ」
「気づくのが遅れてたら戻るのも難しかったよ。ありがとう」
彼が笑うのを見るのは確か二回目だ。感謝されるのは――記憶を辿ってみるが思い当たらない。いや、物を取ってやったりだとかで言われた記憶はあるけれど、そういうものとこれは明らかに違う。
「方角の確認は、きみに任せてもいい?」
湧き出した感情が嬉しさだと認めてしまえば惨めになるかと思ったけれど、警戒心を置き忘れてきたような顔で微笑む彼を見ていると、むしろ気恥ずかしささえ覚えてしまう。
「……分かった」
感情を薄めたくて息を吐き出し、しばらく空を見上げながら歩き続けた。まるで友人と歩いているような気分だった。
ただ――俺たちのハイキングは元より楽しいものじゃない。目的地に近づくたび木々が多くなって視界が悪くなり、何かが動く気配が神経をすり減らした。
「川の音がするね」
立ち止まって上がった息を整えながらエディが言う。耳を澄ませると、草木が擦れる音に混ざって水の流れが聞こえてきた。目的地が近いのだ。
喉を締め付けるような緊張感があったけれど、周囲に人の気配はない。
「明かりも見えないし……誰かが滞在してる感じはないかな」
「……よかった」
ほっと息をつく俺にエディはまた笑った。彼も緊張から解放されて嬉しいのだろう。
「もう少し行って、何もなければ戻ろう」
頷いて、また二人で歩き始める。得体の知れない何が潜んでいるかもしれないということを抜きにすれば、夜の森は幻想的で興味深かった。クレイにも見せてやりたいと思う。
ハンター探しはこれで終わるのだ。
クレイは怒るだろうけど……また次の観測所を探そうと誘えば、喜んでくれる気がした。
「ヒース」
名前を呼ばれて顔を上げる。その視線の先にいたのがクレイではないことに気づいて現実に引き戻された。その表情が固いことに不安を覚える。
「……何かある」
エディの言葉に総毛立った。息を詰め、神妙な顔をした彼が指差す先を見る。
あれは……小屋だ。一つだけぽつんと建てたもののようだけど、人間一人が暮らすには十分快適な大きさがある。 明かりは何もなく、物音もしないが、小屋は手入れされているようにも見えた。
「人の気配はないけど……」
確認しないわけにはいかない。彼が言いたいことは分かった。情けなくも足が震えていたけれど、俺は頷く。できるだけ彼のそばによって、足元に注意を払いながら小屋へと近づいた。
小屋全体が見え始めて血の気が引いていく。観測所のような、誰もが廃屋だと表現するものとはまるで違う。つい最近まで使われていたようなそれに俺は思わず立ち止まった。
「エディ、戻ろう。危険すぎる」
「……きっと誰もいないよ。それに、中を見ればどんな奴が使ってたか分かるかも」
「近くに誰かがいるかもしれないだろ?」
「それだったらもう襲われてる」
俺よりもずっと落ち着いているエディの言葉は説得力があった。けれど、恐怖心の方が勝っているせいですぐにでも逃げ出したくなる。その臆病を忘れるために唇を強く噛んだ。
いよいよ小屋が目の前に迫っても、何も聞こえない。よく見れば入り口の扉は少し開いていた。こんな場所で暮らす人間に施錠の意識があるのかは疑問だけど、この不用心さは誰もいないことの証に思えた。
俺の目を見てエディが頷く。扉を足で押し開ける様子がスローモーションのように見えた。ここに来る前にクレイと話をしておけば良かったと、ふと思う。
――小屋の中には誰もいなかった。
入り口から差し込む月明かりと、その奥の暗闇に伸びる二つの影を眺める。隅々まで確認したわけではないけれど、人の形をしたものはない。
漂ってくるその匂いはクレイを連想させた。息をのんでエディの後ろから中を覗き込むように前のめりになる。やはりこの中には、感染者が咲かせる花に近い香りが混ざっていた。
「まさか……」
ハンターは花人間を狩る。そんな言葉が頭をよぎり、呼吸が止まった。
俺たちはお互いの顔を見合う。
「……五分だけ調べよう。あとは大人たちに知らせて何とかしてもらう」
声が出せず、代わりに何度か頷く。心臓がうるさく脈打ち、焦って大きな物音を立てないよう慎重に中に入った。
外から見るより中はずいぶん荒れていた。床は傷だらけで所々小さな穴が開いているし、足のかけた椅子はほとんど腐りかけだった。
もう使われていない場所なのだろう。この匂いの正体こそが家主の死体なのかもしれない。そう言い聞かせる。
残るは奥の扉だけだ。造りから考えて寝室だろう。エディに目配せし、そこへ向かう。いつも先に進むのは彼だった。まるで俺の前に立ちふさがるように大きな背中が現れ、彼が扉を開ける。軋んだ音がやけに大きく響いた。
エディが息を詰める音がする。窓がないその部屋は真っ暗だった。代わりに強くなった花の香りがどっと溢れてくる。
暗闇に慣れた目でもその部屋を見渡すのは難しい。ぼろぼろの布切れが少し離れたところに落ちている。扉の向こうから忍び寄る月明かりがそれを照らし、黒く汚れていることに気づく。――あれは血だ。
「エディ……!」
思わず彼の腕を引いていた。喉が引きつるような感覚が走り、もう限界を迎えていることが分かる。
どうせ感染者の死体しかないんだろ?! 頭の中で叫び続けているのに唇が震えるだけで何も出ていかない。もう帰りたい。こんなところにいるなんて馬鹿げている……。
暗闇からエディの腕が伸びてきた。害はないと理解しているのに、震えあがって大きくのけぞった。そのとき何かに足を取られて背中から倒れる。変な向きで手をついてしまって激痛が走った。
「……くそっ」
思わず悪態をついたけれど、その痛みはいくらか冷静さを取り戻すのに役立った。意志に反して大きく震える手を伸ばして壁についたとき……その何とも言えない弾力のあるものに悲鳴を上げた。
「ヒース!」
声を聞いた気がするが分からない。俺はその壁にへばりつく何かにすべての意識を持っていかれていた。見てはいけないと思うのに、呆然と蔓のようなものを目で追っていく。
「――あぁ」
喉を締め付けられたような掠れた声が出る。そこには、壁一面を覆う蔓があった。中心には人の形をしたものが絡まっていて、蔓はそこから生えていることに気づく。
ほとんど腐りかけた感染者の死体が、自らの体から伸びた蔓に絡まって磔にされていた。視線はそいつの顔のようなものに吸い寄せられ、その左目に開いた大きな穴から細い大量の蔓がウジのようにあふれ出している――。
「ちくしょう、なんだよこれ?!」
耐えられなくなって俺は体を引きずるようにして部屋を出ようとする。縋るように見上げた部屋の扉には、黒い液体で書かれた文字があった。
『もうすぐそこにいくよ』
その文字が笑いながら俺を見下ろしている。
突然両脇の下からぐっと体を持ち上げられ、そのまま押されるようにして部屋を出た。エディだ。俺は震える足でなんとか立ち上がり、そのまま二人で駆けだした。
