花人間のカルテ――解釈について


 改めて考えると、昼間にこの観測所を眺めるのは新鮮な気分だった。今のコミュニティにたどり着いて間もない頃、よくクレイと訪れては星を眺めていたこの場所はすっかり変わってしまった。

「ずいぶん簡単に個人行動が許されるんだな……」

 大人たちに一言二言会話しただけであっさり許可がおりたことがいまだに信じられない。エディとクレイがどれだけ頻繁に個人行動をしていたのか、訊かなくても理解できる。クレイが何も話してくれなかったことを、はじめて苦々しく感じた。
 俺の言葉に返事はない。少し先を歩くエディの背中を見つめ、観測所の中へと入る。イライザは、近くの壁に手をついて立ち上がっているところだった。

「驚いた……今日は早いのね?」

 彼女はほっと息をついて力を抜いたようだった。きっと、足音を聞いて警戒していたのだろう。

「今日はあんたに用があったわけじゃないから」

 素っ気なく言って、エディは食料の入った荷物を彼女のそばに置く。すっかり拍子抜けしたようにイライザは肩をすくめた。足の感覚を確かめるように伸ばしたり曲げたりしているが、顔を歪めているところを見ると、まだ回復には時間が必要そうだった。

「……行こう」

 彼女との同行についてもう少し訊ねるべきではないかと迷っていると、声を掛けられる。その眉根を寄せた表情に、俺はいたたまれなくなった。
 エディはきっと、俺が余計なことを口走らないように見張っておきたいのだろう。相変わらず誰も信用しないのだ。彼はなぜ俺に同行を提案したのだろうと今更疑問が湧いてくる。
 屋根に続く梯子は相変わらずぼろぼろだったけれど、エディの体重に崩れないなら問題ないはずだ。慎重に足をかけながら登り、屋根の上に頭が出たところで彼が手を差し出してくる。それを避けて嫌な空気が流れるほうが憂鬱なので、おとなしく手を取った。ぐっと引き上げられ、まるで荷物のような自分を恥じる。

「なにか……手伝えることは?」

 恐る恐る訊ねる自分に嫌気がさす。エディは口を開きかけ、手元の地図に視線を下ろす。

「……地図は読める?」
「当たり前だろ」
「ごめん、確認しただけだよ」

 あまり頼りにされていないのは十分理解できた。俺の不満を読み取ったわけじゃなさそうだったが、エディは広げた地図のある一点を指さした。

「じゃあ、このマルから右回りに確認してほしい」
「……分かった」
 
 俺たちはしばらく無言で双眼鏡を覗き込んでいた。時折冷たい風が吹いては、クレイの地図が乾いた音を響かせる。ただ、一緒にいるのはクレイではない。前は空だけを眺めていたのに、俺は今、彼のいないこの場所で、彼が憎しみを向ける風景を眺めている。

「ねぇ」

 ふと声が飛んできて、俺は視線を下に向ける。そこには、長い板切れを杖代わりにしながら立っているイライザの姿があった。

「何か見つけた?」

 随分のんびりしたその声に、深い意味はないのだろう。何と答えるべきか迷ってエディを見れば、彼は首を横に振った。答えなくていいということだろう。

「力になれそうなら手伝うけど」

 彼女はめげずに話しかけてくる。というより、返答がないことを前提に声をかけているようでもある。体が鈍らないようになのか、お喋りをしながら体を伸ばしたり捻ったりしていた。
 すでに地図上のマルは確認しつくしたように思える。少なくとも、俺に割り当てられたマルは、ここからずいぶん遠くにあって、調べることすら不要な気がする。

「あなたの目的地はここからどれくらいのところにある?」

 だから俺は、他の関心について調べることにした。俺の質問にイライザは目を瞬き、隣のエディは驚いて顔を上げる。

「そうね、少なくともその屋根から双眼鏡を覗くくらいじゃ見つけられない場所よ」
「行って帰るまでどれくらい?」
「さぁ……危険が何もなければ往復一カ月ってとこかしら」

 一カ月。
 たどり着いてすぐに帰るわけではないから、それ以上はかかる。決して短くはない。けれど、長いとも言えない。可能性をかける価値はあるのかもしれない。
 俺はエディを見る。

「……きみが言うように、現実的なのかもしれない」

 俺の言葉にエディが喜ぶことはない。彼は眉根を寄せたまま、気まずそうに目を逸らす。なんとなく苛立った。

「……俺の意見は必要ないって?」
「いや、違うよ……」

 言い争いをしたいわけではないのでそれ以上は言わなかった。するとエディは立ち上がって、地図を上着のポケットにしまう。もう確認は済んだのだろうか。戸惑う俺を置いて屋根の下に降りていく。渋々後を追うと、彼は迷わずイライザの元へ歩み寄った。

「もし同行者が一人増えたら?」

 エディの言葉に彼女は訝しげな顔をしたが、俺の姿を見て納得したように肩をすくめた。

「白い彼もってこと?」
「……確認してるだけだ」
「最初にも言ったけど、安全は保障できない。それでもいいと言うなら、いいわよ。白い彼だけならね」
「彼以外は?」
「以前伝えた色の花を持つ感染者は連れていけない。あとは人間性にもよる。リスクは負えないから」

 彼女の理性的な答えに胸あたりが重くなる。クレイは連れていけない。いや、そもそも彼がおとなしくついてくるとは思えない。
 行くならばエディと俺しかいないのだろう。少しずつ答えを迫られているような気がして、急に胃が痛みだした。
 
「……もうひとつ」

 動揺したままの俺の前で、エディは地図を広げる。思いもしていなかった行動にぎょっとするが、声は出ていかない。

「この中で、あんたが拠点を置くとしたらどこにする?」

 相変わらずぶっきらぼうなエディに不満そうだったが、彼女は黙って地図を眺める。しばらく顎を撫でていたイライザは、少しだけ楽しそうに笑った。

「これ、あなたが付けた印? なかなか鋭いわね。ちょっと座ってもいいかしら、足が辛くって」

 言いながら、彼女は地面にゆっくり腰を下ろした。それに倣って俺たちも近くに座って地面に地図を広げる。イライザはその細い指を、地図の左上に持って行った。

「ここ、おそらく水辺がある。あとは周囲に比べて少し低くなってるでしょ。この地形であればここね」

 遠すぎてここからでは確認できない場所だけにマルは残っていて、彼女が示したのはそのうちの一つだった。エディは少し黙って、その鋭い目で彼女を見据える。

「……本当に研究医?」

 なんとなく、不気味な言葉だと思った。二人の表情を見比べるようにすれば、こちらまで息苦しくなる。しかし、イライザの表情は柔らかかった。

「らしくないと言われてきたのは認めるし、フィールドワークが好きなのは本当」

 正直、この二人の間にいるとストレスがたまる。どちらも何を考えているか分からないし、危険な匂いしかしない。エディは黙って地図をしまうと立ち上がった。

「戻ろう」

 その声を合図に俺たちは仲間たちの元へ戻る。エディは何も言わなかったけれど、彼もまた、あのマルが本命だと考えているようだと思えた。

「……ごめん」

 突然前方から弱々しい声が響いてきて、俺は慌てて顔を上げる。何について謝罪されているのかが全く理解できず、居心地が悪かった。

「なにが?」
「一緒に来てと言いながら、具体的に何も考えてなかった」
「……は」

 冗談だろ、とは言えなかった。考えてないのではなく、俺に言うつもりがないの間違いだろう。
 気づけば横に並んで歩いていて、横目で彼の表情を見る。目が合っても、先に逸らすのは彼の方だった。

「同行については……また明日、詳しく訊いてみるよ」
「……訊きたいことくらい自分で訊ける」
「そうだね。でも、僕も気になるから」

 それきり彼は黙り込んだ。次第に森が近くなってほっとする。この平野は、昼間だと自分たちの姿がどこからでも見える。ただ、落ち着かないのがそのせいなのかは、はっきりしなかった。

「ハンター探しだけど……さっきイライザと話した場所以外は、もう見る必要はないと思う」

 ふと話題が変わり、俺の意識はクレイの地図に戻ってくる。彼の言う通り、今残っているマルは、実際にその付近までいかないと確認はとれなさそうだった。無駄な行動を避けたがるのが彼らしい気がする。

「ずいぶん距離があるけど、どうやって調べるんだ?」
「夜中に出て、夜明け前に戻る。拠点があるなら、ある程度遠くても何か見つけられるはずだから」
「……武器も持たずに?」
「誰もいないことを調べるだけだからね。きみは――」
「いい加減確認するのはやめろ。俺も行くと言ってるだろ」

 つい声を荒げてしまい、耳が熱くなる。彼が俺を対等に扱えないことは理解できるが、それを我慢できるかはまた別の話だ。エディは頷いて、こちらを見る。その真剣な眼差しを、思わず見つめ返した。

「分かった。二人でやり遂げよう」

 意外な言葉に動揺した。打って変わって心強いと感じてしまう自分が恨めしい。同時に、クレイの顔が頭をよぎる。
 これ以上彼から遠ざかりたくないというのに、俺の進む先にはクレイがいない。
 誰に許しを請うわけでもないけれど、許されるのなら、立ち止まってしまいたい。