◇
「僕と一緒に来てほしい」
一瞬思考が止まって、急に気分が落ち込む。少しだけエディを心配してしまったことを後悔した。
彼のこれは……当てつけなんだと思う。
緩んでしまった警戒心を元に戻そうとしながら眉根が無意識に寄っていく感覚があった。
「……行くわけないだろ」
せっかく茎の髪の情報を差し出したのに得られるものはなかったのだ。彼が苛立つのは当然だろう。ただ、文句があるなら言えばいいのに、遠回しな言い方をするエディを非難したくなる。彼は俺が一緒に行くなど微塵も考えてないだろう。
「少なくとも、コミュニティにいるよりはずっと有意義だよ」
「本気で言ってるのか……?」
なおも食い下がってくる彼に俺は戸惑う。月は雲の中に隠れ、夜の暗闇に投げ出されていた。ただ、闇に慣れてしまった目はお互いの姿をしっかり認識できてしまう。相変わらず感情の読めない表情に居心地が悪くなったけれど、いつも以上に彼の声ははっきりしていた。俺は慎重に言葉を探す。
「……きみの情報が役に立たなかったのは悪いと思ってる。けど、そそのかしたわけじゃないんだ」
「分かってるよ。きみはただクレイを助けたいだけだ。もちろん、僕もね。僕たちならその方法を見つけられる」
「イライザと一緒に行くことがその方法だって?」
「そうだよ」
信じられないことだった。俺が慌てふためくのを見て楽しむような相手ではないし、だからこそ自分の置かれた状況がますます理解できなくなる。
クレイの声が聴きたい。
「俺は行かない」
耐えられなくなって、エディを置いて足早に帰り道を歩き出す。夜の暗闇よりずっと彼が恐ろしかった。いや、恐ろしいのは彼じゃない。いつもは関係のない選択肢を投げつけられ、俺は心の底から怯えている。
――行くべきなのか?
イライザと一緒に行けばこのウイルスについて今以上の情報が得られると、エディは考えているらしかった。
適合者の――クレイのクリーチャー化は本当に止めることができるのだろうか。あのエディが協力を持ちかけてきたこと自体が、重要な可能性のように見えてくる。
「……俺は」
ただ、情けないことに答えは出ていかない。後ろからエディの足音は確かに聞こえるけれど、彼から声をかけることはもうなかった。
俺たちは今日もまた無事に戻り、秘密を抱えたままお互いの部屋にこもる。俺はベッドに腰かけ、両手で顔を覆ったまま長く息を吐きだす。
あの大雪の日から心休まることはない。顔を上げると、机の上に投げ出されたハンドガンが見えた。使うつもりなどなく、お守りのようになっていたそれが、ひどく不吉なものに見える。俺はあれで何をしようとしていたのだろう。
もう一度息を吐きだしながら横になる。
これはチャンスなのかもしれない。頭の中で声が鳴り響いていた。エディもまたクレイのために行動する気があるのだ。
彼の言葉は俺よりもずっとクレイに届く。これを逃したら次はない気がした。
◇
早朝の廊下は陽の光で満ちていた。鼻先の感覚を奪うその空気を肺いっぱいに吸い込むのは好きだ。体の中で温められた白い息が出ていくころには頭はすっきりしている。
医務室の扉を軽くノックして開けると、三つあるうちの一つにクレイがいた。オレンジ色の髪が目に入ると同時に、いつもの香りが微かに漂う。
彼はもう目覚めていて、毛布から器用に腕だけを出して読書をしている。それでも寒いのか、気に入っているだけなのか、首元には黒いマフラーがあった。珍しいものではないのに、特別大事にしているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「……どうしたんだよ」
クレイが先に声をかけてくる。そういえば、俺たちは言い争いをしたきりまだきちんと話をしていなかった。あれからたくさんのことがあったせいで、ずいぶん昔のことのように思える。
「……調子は?」
後ろ手に扉を閉めて、ストーブの中にある薪に火を入れた。俺の質問に、クレイは「まぁまぁかな」と短く答える。じわじわと広がっていく熱が心地よいのか、彼は目を細めた。
「頭ははっきりしているけど、どうも怠くてさ」
ゆっくりと上体を起こし、両手を天井に伸ばす。本調子ではなさそうだが、思ったよりも顔色が良くてほっとした。
「きみは?」
近くの椅子に腰かけると訊ねられる。ふと顔を上げれば、クレイと目が合った。俯くふりをして視線から逃げる。
「別に、いつも通りだ」
「それはよかった」
一昨日の言い争いについて改めて話すつもりはないのだろう。正直、都合がよかった。今の俺は強く言える立場にいない。彼にとって重要な情報を隠して、きっと今日も観測所に行く。
「……はやく良くなってほしい」
きみがいないと俺はどうしたらいいか分からない。続きの言葉を頭で呟きながら、何もない自分の指先を眺める。部屋は静かすぎて、クレイの呼吸音だけが耳に響いた。
「ああ、大丈夫だって」
彼の顔を見る。困ったように笑っているのは、また心配し過ぎだと呆れているのだろう。このオレンジ色と彼の無鉄砲さは最悪な組み合わせだと思えた。目を離せばいつの間にか遠くに消えてしまう気さえする。
俺たちはしばらく、相変わらず騒がしいやつのことや、雪かきが大変だったことを話していた。しばらくすると廊下から声がするようになる。そろそろ朝食の時間だ。
「じゃあ、また」
短く言葉をかけて、俺は医務室の扉を開ける。すっかり温まった部屋に、廊下から冷たい風が襲ってきた。急いで扉を閉めようと部屋の外へ踏み出すと、クレイの声が追いかけてくる。
「エディはぼくのこと何か言ってたか?」
なんとなく弱々しい声だった。俺は振り返って、肩をすくめる。
「きみを心配してる」
彼は返事をしなかった。また本に目を落とす彼の横顔が最後に見え、扉が閉まる。
食堂に向かうとすぐにエディの姿を見つけた。茎の髪はどこにいたって目立つ。自分の分を受け取って、一人で食事をしている彼の斜め向かいに座った。
「……クレイは、元気そうだった」
この言葉に含まれた意味は俺たちだけしか知らない。ただ、問題なのはその先のことだった。昨日の今日でまだ残っていた気まずさを払おうと顔を上げると、驚いたように目を丸くするエディがいて拍子抜けする。
「クレイと話をしたの?」
「……そんなに驚くことか? もちろん、イライザの話はしてない」
「だって、あんなに険悪だったのに」
そう言って、彼はため息をついた。髪をかき上げる仕草は苛立っているようにも見えて少し身をすくめる。そういえば、彼は俺たちの口論を目の前で見ていた。他人の仲たがいの間に入るのは俺だって勘弁したい。
「今日は――」
「今日からまた狩りを再開するって」
もたもたしている声にエディの声が重なる。彼はきまり悪そうに顎を引いた。
「あ、ごめん……きみから」
「いや……今日はどうするって、訊こうとしただけだ」
「僕は狩りについて行くよ。それで、昼間のうちにイライザに食料を渡して、ハンター探しの続きをやる」
「クレイにまだ付き合ってやるのか? それ以外にもっと……」
具体的な話など何も提案していない自分に気づいて言葉は萎んでいく。ただ、ハンター探しをエディがやることについては理解できなかった。そんな俺の目の前で、彼は地図を広げる。コミュニティ周辺の地図だとすぐに分かった。いくつかのマルと、その上にバツが書き込まれている。マルだけのところがあと数か所残っていた。
「これ……」
「クレイの地図だよ。彼は、このマルの場所を全部探し終わるまでハンター探しをやめない」
「その場所をきみが調べるって?」
「そう」
もう一度地図に目を落とす。このマルとバツの数は、数日の間に書き込まれたものではないだろう。クレイがハンターを気にしているのは知っていたが、ここまで具体的に行動しているとは思っていなかった。几帳面な彼にしては珍しく地図は皺が寄っていて、長い間持ち歩てきたのだろうと分かった。
彼はいつも一人で決める。頼りにしたのは俺じゃなかった。
――いや。
ふと、嫌悪感に似た疑問が湧いてくる。これほどのものを、彼が他人に渡すだろうか。やると決めたらそれを手放さないはずだ。
「これ、勝手に持ってきたんじゃないよな?」
途端、エディの瞳にはっきりと動揺が見えた。彼は地図を折りたたみ、上着のポケットに入れる。その動作が答えでもあった。
「そんなことしていいと思ってるのか?」
「これで彼が危険を冒さなくなるならやるべきだよ」
「何も分かってないな……! クレイは自分の目で見たものしか信じない。こんなことで納得するわけが……」
「クレイを守りたいんじゃないの?」
喉が上下したのが分かる。それを引き合いに出され、動揺と怒りが頭の中をいっぱいにしていた。目の前にいる存在は俺と何もかも違う。その茎の髪が、改めて異物に見えてくる。
「きみに何が分かるって言うんだ? 彼の尊厳まで踏みにじるのがそうだと?」
「勘違いしているみたいだけど」
珍しく顔を歪めたその表情に言葉が引っ込む。エディはゆっくり深呼吸して、片手で顔を覆いながら俯いた。
「これは僕が勝手にやったことだよ。きみが怒るのも分かるし、きっと、クレイも許さないだろうね。僕は構わない」
心臓のあたりに重たいものが落ちてくる。エディの声ははっきりしていて、迷いもないように感じた。滲みだした怒りはすっかり消え失せていて、動揺だけが残ったままになる。
彼は本気で行動を起こそうとしている。このコミュニティを去る前提の行動のような気がしてならない。
――もしクレイを置いていくのなら。
頭によぎったその考えに愕然として、俺は無意識に口元を押さえた。クレイを置いていくなどあり得ない。ただ、このまま何もしないでいれば、エディの協力も得られないままだ。
「……俺も、狩りについて行く」
俺の言葉に、エディは呆然とした表情でこちらを見た。
「その地図の場所を俺も確認すれば……きっとクレイも分かってくれる」
随分弱々しい声で、まるでそうであってほしいと言っているみたいだった。
