いくら擦っても消えない染み、のような。
心の一点にそっと残る、忘れられない人がいる。
*
上原まり
小山内翔
少子化で1クラスしかない西小学校、通称西小は、学年が上がってもメンバーは当たり前に変わらない。
年度始めの席は名簿順になるのがお決まりで、6年間、いつもわたしの後ろには翔がいた。
「あー、早く席替えしてーな」
クラスの誰かが言った。
誰が言ったかなんて、今はもう覚えていないけど。
「たしかに」
そう言って笑ったように聞こえた翔の声は、今でも覚えている。
声変わりしかけていて、少し掠れた声だったことも。
「えー、けどこの席もこれで最後だよ、きっと。ほら、中学は沖小と一緒だし、2クラスになるもん。そう思うと少しさみしくない? ねー、まり?」
最後のこの席を惜しむようにそう言ったのは、隣の席の冴島雫だった。
小学校6年生。
この席順で座るのも、今年が最後。
わたしもそう思ってた。
ずっとこの席でいいのに。
……ううん。ずっと、この席がいいって。
だからわたしは、雫の言葉に小さく。だけど、確かに頷いた。
だって、きっと一週間もすれば、例年通りにまた誰かが「この席もいい加減飽きた。席替えしたい!」と言うんだろう。
わたし、わたしはずっと——。
*
「上原?」
昔懐かしい声が聞こえた気がした。
ごった返す直売所の中、聞こえるはずのない声がしたから、『聞こえた気がした』だけに違いなかった。
ううん、本当はそう思いたかっただけなのかもしれない。
「あ、ほら。やっぱり上原だ。久しぶり」
またわたしの名前を呼ぶ声がしたと思ったら、その声の持ち主はいつの間にかわたしの前に回り込んでいた。
「……っ、あ、」
人はあまりにも驚くと声がでなくなるらしい。
だって、わたしはついさっきまで『今日の夕飯なににしようかな』とか『それにしても今日は混んでるな』とか、本当にどうでもいいことばかり考えていたから。
翔のことはいまこの瞬間、心の片隅にも考えてさえいなかったから。
「覚えてる? 俺、小山内だよ。久しぶり、上原」
そう笑った翔の顔があの頃と変わらなすぎて。
いや、年相応に変わったんだけど、笑顔があの頃のまますぎて。
そう思うと同時にあの頃のむず痒い気持ちと、湿った気持ちが心の中を占めていった。
ああ、呼び名は『上原』のままなんだなって。
忘れられるわけがない。わたしにとって翔は、特別な人だったから。
30歳にもなって、まだあの時のことを引きずっているなんて、目の前にいる翔は思いもしないだろう。
忘れていてほしいと思うけど、忘れられていたら悲しいとも思うから、翔の心の内は一生知りたくない。
「……あは、びっくりした。久しぶり。覚えてるに決まってるじゃん、小山内!」
だから、笑った。
頬はひきつってなかっただろうか。
ちゃんと自然に、普通に見えていただろうか。
10数年ぶりに会う同級生への対応として、何も間違えてはいないだろうか。
わたしのそんな心配を知る由もない翔は、また人当たりの良い笑みを浮かべた。
「やー、こんなとこで会うと思ってなかったから油断してたわ。元気してた?」
そう言うわりにはなんのためらいもなく話しかけてきたように思う。
よっぽど、わたしなんかより。
「元気にしてたよ。か……、小山内は、ここで働いてたの?」
思わず『翔』と口走りそうになって、慌てて言い換えたことには気付いてなさそうだった。
「そーそー、一か月くらい前にこっちの配属になってさ。普段は店内にはいないんだけど、ほら歳末キャンペーンでこの込み具合だろ? だから今日はほら、こんな感じ」
そう言って直売所スタッフが身に着ける緑エプロンをぴらっとつまんで見せた翔は、どこか楽しそうに笑った。
「ああ、だから今日はこんなに混んでるんだね」
なるほど、翔の言葉で、いつも以上に賑わいを見せている店内に納得がいった。
「うん。いつもはもっとパッとしない感じだけどな」
「それ、ここで働いてる翔が言っていいの?」
「わは、その通り」
……よかった、と。
何もよくないことはわかっているけれど、普通に接して笑ってくれる翔に少しずつ緊張がほどけていく。
わたしは過去に2度、翔に対して失敗しているから。
翔を傷つけただろう、失敗を。
「上原、ちょっとこっち」
急に真剣な表情をしたと思ったら、翔はわたしが押していた買い物カートをわりかし人通りの少ない通路の方へと誘導していく。
わたしの右手のすぐ横に、翔の大きな左手が添えられている。
その薬指に指輪はなかった。
*
わたしは2度、翔に対して。
……ううん。自分の恋で、2度の失敗をしている。
「……なあ、まりは好きなやついる?」
理科の授業でヨウ素反応の実験をしているときだった。
「……いる、けど」
その頃は誰が好きとか、誰が嫌いとか。
両想いとか、片想いとか、そういう話題が日常の一部で、なんてことない会話のはずだった。
「……俺も書くから、まりも書いて」
そう言って自分のノートの端っこをびりびりに破いて、翔がその紙切れをわたしに渡して来る前までは。
当時わたしと翔を含めて男女6人程度のグループでよく一緒に行動していた。
放課後も近くの大きな運動公園で毎日遊んだし、誰かの家に行ってゲームをすることもざらにあった。
中でも翔とは保育園からの付き合いで、わたしは翔のことを異性で一番仲のいい友達だと思っていた。
——好きだった。初恋だった。
いつから、なんてのはもう覚えてない。
いつだって一緒にいたし、好きになる理由がなにかあったというよりも、誰より一緒にいる時間が長かったからだと思う。
翔はあの日、あの紙切れに、確かにわたしの名前を書いていた。
恥ずかしそうに、だけどわたしの目をしっかり見て。
震える右手で、赤い顔でそれを差し出されたことも覚えている。
……わたしは、書けなかった。
翔の気持ちを知っていても、翔がわたしの気持ちを知っていても。
両想いだとなんとなくわかっていて、わたしはそこに翔の名前を書くことができなかった。
自信がなかった。
もしもそこに別の誰かの名前が書かれていたら。
わたしだけが翔を好きなんだとしたら。
そう思うと、怖くて、恥ずかしかったから。
わたしは白紙で翔に手渡した。
「……なんも書いてないじゃん」
泣きそうに震えた声は、いまもずっと耳にこびりついている。
これがわたしの失敗ひとつめ。
*
「上原はいまなにしてんの? ていうか、地元残ってたんだ。もしかしてここよく来てる?」
翔の言葉にはっとする。
そして、翔の視線がさっきのわたしと同じように、わたしの左手に注がれていることに気付く。
「……今日仕事休みで。リフレッシュ兼ねて実家に帰ってきてるんだ。いまは隣の市に住んでて、実は月1くらいでこっちに来てるんだ。夕飯はわたしが作ろうと思ってここに寄ったの。実家来るたびに買い物来てるかも」
翔の視線に気付かないふりをして、さりげなく左手を右手で覆った。
わたしの左手のそこに指輪はない、けれど。
「そうなんだ。また会えたのも何かの縁だし、今度食事でも行こうよ」
行く、と声が出かけて、止めた。
翔のこの表情の意味を、わたしは知っているから。
「……やめとくよ。わたし、指輪してないけど結婚してるんだ。調理系で働いているから装飾物NGで。3歳の子どももいてさ。……だから、いくら幼馴染でもちょっとね」
ここまではっきり線を引く必要はなかったかもしれない。
けれど、わたしには意味のあることだった。
だって、ずっと忘れられなかった。
こんなに時間が経っても、話せるだけで嬉しいってことに気付いてしまったから。
*
翔からのわたしの呼び名は、2度変わっている。
小学校のときは『まり』だった。
だけど、中学に上がった頃急に『上原』に変わった。
中学3年間の冬の期間、通学バスの閉鎖された車内でだけまた呼び名が『まり』に戻った。
そのほかはずっと、『上原』のまま。
わたしの中の翔は『翔』のままなのに、翔の中のわたしは『上原』になってしまった。
小学校の頃のあの失敗を引きずったまま、当初の予定通り西小と沖小が西中に進学した。
最初こそ『まり』と名前で呼ばれていたものの、翔とはあれ以来気まずくなった。
拍車をかけたのは、沖小出身者の特に男子が名前ではなく名字で呼ぶこと、そして明確に男と女を意識し始めた思春期真っ盛りせいで、それまで『まり』と名前で呼んでいた西小の男子生徒みんなが女子を名字で呼ぶようになった。
わたしにとってそれはすぐに受け入れられるものじゃなかった。
そして、そうなってからすぐに、翔は小学校の頃の暴君さが嘘かのように大人しくなり、真っ当な好青年になった。
元々見た目は上の上。
学校行事なんかの写真にはよく翔が写り込んでいて、わたしがメインのはずのアルバムを見ながら母はいまになっても「翔くんはこーんなちっちゃい頃は可愛かったけど、いまはすごくかっこよくなったわよね」なんて言うくらいの容姿をしていた。
おまけに入学してすぐに生徒会に入っちゃって、全校生徒の前に立つ機会も自然と増えたから、他学年に翔のことを知る人が多くなった。
翔に初めての彼女ができたのは、2年になってすぐの頃。
1年生の中で1番かわいいと噂になっていた、白石ちゃんだった。
その頃わたしにも付き合ったばかりの同学年の彼氏がいたけれど、その彼氏より翔の方が気になっていた。
自分でも当時を振り返ると、なんて薄情で嫌な女なんだろうと思う。
その彼女とはどうなったか、その後のことはわからない。
雪が1メートル以上降る新潟県の田舎にあるわたしが通う中学は冬期間だけスクールバスが出ていて、方面別に3便バスが分かれていた。
そのバスの最後に降りるわたしと、その1個前で降りる翔とは、必然的に毎日ふたりきりになる。
翔が降りる1個前までは他の友達もいて賑やかなのに、その子たちが降りると瞬く間に車内が静けさで満ちる。
その時間が愛おしかったことも、恥ずかしかったことも、少し気まずかったことも。
だけど本当はすごくうれしかったことも。
ずっとずっと覚えている。
一度、翔がバスを降りる間際に勇気を出して「ばいばい」と言った。
それまでたったの一度も口をきかなかったから、翔は驚いた顔で振り返ってそのままバスを降りたけど。
いつもならこっちを振り返りもせずに家の方へ歩いていく翔が、こっちを振り返って小さく手を振ってくれた瞬間、嬉しくて情けなくて泣いてしまった。
その後わたしは彼氏と別れた。
2度目の失敗は、大学の頃。
なんとなく翔のことは忘れていた。
高校は翔は全寮制の高専に進学して、もう会うことも一目見ることすらなくなった。
ふいに思い出す日もあったけれど、大学進学で上京して多くの人と関わり刺激を受けるうちに、自然と思い出す頻度は減っていた。
夏休みに帰省して小学校からの幼馴染の冴島雫とさえ会わなければ、そのまま翔のことを忘れられていたのかもしれない。
「ねー、この小山内のLINEのアイコンさ、何だと思う?」
電話番号で勝手に友達登録される設定になっていたわたしのスマホにも、いつのまにか翔がいることに気が付いていたけれど、わざと見ないようにしていた。
「え、なんだろ。どんなやつ?」
「んー、これ。なんかアニメ? それも美少女アニメ? なんかキャラじゃなくない? きもー」
商業施設のフードコートでお互いのスマホに翔のLINEのアイコンを映しながら、雫は何度も「きもい」と口にした。
わたしはなんとなくそう思えなくて、だけど、気が強い雫に反発もできなくて曖昧に流すしかできなかった。
そのうち雫が言った。悪い顔で。
「ね、2人でさ、同時に翔にLINEしよーよ。”このアニメなに?好きなの?w”って」
断れなかったわたしが悪い。
人に流されるだけだったわたしが悪い。
わたしは雫と一緒に、翔に送ってしまった。
すぐに既読はついたけど、返事が来ることはなかった。
そのうち、スマホから翔の名前が消えた。
ああ、アカウント消して、ブロックされたんだって、すぐにわかった。
*
「子どもの写真見る? 女の子でさ、かわいいんだ」
わたしの言葉に、翔がどんな顔をしていたかわからない。
翔が話す前に切り出して、最近撮った一番かわいい娘の写真を翔に見せた。
「ほんとだ、かわいー。上原似だ」
周りの話し声や店内のBGMが耳をすり抜けていく。
ああ、翔の笑顔、ずっと変わらないな。
……あの時、わたしが間違えなければ。
今頃どんな未来があっただろう。
旦那のことも、娘のことも世界一大好きだ。
だけど、『もしも』を全く考えないと言ったら噓になる。
考えて考えて、いまの幸せが一番大切なのだと噛みしめる。
——ピーンポーンパーンポーン——
『小山内さん、小山内さん、1番お電話です』
「……呼ばれてるよ、小山内」
「……呼ばれたなあ」
店内放送に一気に意識が現実へと浮上し、小山内の顔を10数年ぶりに見つめた。
年相応に見えはするけど、あの頃と同じ、翔のまま。
好きになる理由なんかなかったよ。
だって当時はすごくクソガキだったし、クラスで問題を起こしてばっかだったし。
……その仲裁もよくしたなあ。
「……ふふっ」
「なに笑ってんの」
「いや、大人になったんだなと思って」
「なんだそれ」
今度は忘れられたらいい。
また同じだけの時間がかかっても、誰かに流されることなく、ただ思い出にするためだけに。
「……そろそろ行くわ」
そうして背を向けた翔の後ろ姿に、あの日と同じように言葉を投げた。
「……ばいばい、翔」
うるさい店内のせいで、今度の声は翔に届かなかったみたい。
でも、それでいいと思った。
謝りたかった。あの日の話もしたかった。
だけど、もうおしまい。
その夜、知らない番号からSMSが届いた。
翔からだった。
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上原。小山内です。
今日は久しぶりに会えて嬉しかった。
俺、嘘ついた。
上原が買い物に来るって知ってて、上原だって気付いてて話しかけた。
ずっと見てた背中だから、間違うはずなくてさ。
最後だと思うから、言うわ。
俺、上原の背中が好きだった。
背が高いこと気にしてたけど、いつも背筋が伸びてて。
5年の頃のクラス全員巻き込んだでかい喧嘩覚えてる?
あの時俺濡れ衣着せられて、だけどクソガキで誰も俺を信じるやつなんかいなくてさ。
濡れ衣だってわかってるほかのやつは巻き込まれたくなくてだんまりだったよな。
だけど、上原だけがあの時声を上げてくれた。
あのとき、すごく嬉しかった。
俺をかばってくれたあの時、上原の背中が頼もしくて。
上原はあの時のことなんか覚えてないかもしれないけど、あの日から上原の背中ばっか見てた。
それだけ言いたかった。
元気で。
家族大事にな。
今度こそ、ばいばい。
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忘れられる日なんか来るのだろうか。
いくら擦っても消えない染み、のような。
染みのようにじわじわ広がっていくような。
心の一点にそっと残る、きみはわたしの大好きだった人。



