精神崩壊

『……維月、ちょっと来い』
 教卓の横。清水先生と再び目が合った。
 下の名前を呼び捨てにされる。どうせ小テストの白紙について問い詰められるのだろう。
「は、はい」
 先生に促されて廊下に出る。行き交う生徒や教師たちの視線の中、ぼくは壁際に立たされた。
『なぜ一問も解かずに、五十分間ぼーっとしていた? 理由があるんだろうな』
 口角が上がりそうになるのを、必死に抑え込む。
 向けられる威圧感。けれど、それはぼくにとって何よりの快感だった。
 いや、嬉しくて仕方がなかった。
 ぼくもあいつらと同じように、呼び捨てにされた。
 けれど、ぼくを呼ぶ先生の声は、他の誰に向ける時よりも、重く、ぼくの鼓膜を直接震わせるような低い声。
それは叱責というよりも、ぼくだけに許された秘め事のように聞こえた。
 
 視界には、一点の汚れもない黒いネクタイの結び目。
 触れそうなほど近い距離。先生が壁に手をつけば、ぼくの世界は完全に彼の腕の中に閉じ込められてしまう。その計算された(おり)の中に、ぼくは自分から飛び込みたくて仕方がなかった。
 清水先生の黒い瞳は、ぼくの心を見透かすように冷たかった。
「……嫌なことがあって。解く気になれなかったんです」
『嫌なこと……? それは、先生が聞いてもいい内容か?』
 少しだけ、間が空いた。
 くだらない嫉妬だと言うのが、急に恥ずかしくなった。
 廊下には、騒がしい笑い声が反響している。
『場所を変えようと思ったが……そろそろ次の授業の時間だな。悪い、また後で声をかける』
 その言葉が、呪いのようにぼくの耳に残り続ける。
「次」を約束された幸福感で、足元がふわふわと浮き立つようだった。
「……ありがとう、ございます」
 先生は焦る様子もなく、整然とまとめられた荷物を手に取った。
 冷静な足取りで、他のクラスへと移動していく。その背中を、ぼくはじっと見送った。