――四月。世界は再び、不愉快なほど鮮やかな桃色に塗り潰されていた。
窓の外では、新しい制服に身を包んだ「まともな」高校生たちが、期待と不安を交互に囀りながら坂道を登っていく。かつての僕が歩むはずだった、その輝かしい列の中に、今の僕の居場所はどこにもない。
僕の新しい居場所は、週に一度、雑居ビルの一室に通うだけの通信制高校という名の箱庭だ。
そこには、くだらないことを競うライバルも、僕を監視する冷徹な視線も、複雑な証明問題も存在しない。あるのは、ただ無為に流れていく時間と、それを消費することだけを目的とした、希薄な人間関係だけだった。
午前十時。
本来なら、一限目の授業が終わり、次の科目に向けた緊張感が教室を支配している時間だ。
けれど、僕の部屋は痛いほどの静寂に包まれている。母は、あの日以来、幽霊のように僕を避けてパートに出かけるようになった。テーブルの上に置かれた千円札と、コンビニのレジ袋。それが、今の僕をこの世界に繋ぎ止めている唯一の供給源だ。
僕はベッドから起き上がり、カーテンを開けずにスマートフォンの画面を点ける。
通知は一件もない。
あのアパートで、あの雪の夜に、僕を繋ぎ止めていた銀色の光はもう二度と熱を持つことはない。清水先生の連絡先は、警察の手によって物理的に、そして社会的に消去された。
僕は冷え切った指先で、画面に映る自分の顔を見つめる。
睫毛は相変わらず長いけれど、その奥にある瞳からは、先生を破滅に導いた時のあの鋭い光は失われていた。今の僕は、ただの「空集合」だ。中身のない、定義されない、ただそこに存在するだけの数字。
僕は湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れる。
春休み、あの海沿いの別荘で、先生が毒薬のように啜っていたあの泥水を思い出す。
先生がいないキッチン。
先生の残り香すらしない、この殺風景な四畳半。
僕は、先生から教わった「最短距離」で朝の準備を済ませるが、急ぐ理由はどこにもなかった。
昼過ぎ、僕は重い足取りで通信制高校のスクーリングへ向かう。
駅前の雑居ビル。エレベーターを降りると、そこには不登校経験者や、事情を抱えた少年少女たちが、それぞれの孤独を抱えて座っていた。
教室(と呼ぶにはあまりに事務的な空間)では、プリントが配られる。
内容は、中学一年生でも解けるような、あまりにも退屈な基礎問題ばかりだ。
かつて、難関私立校を目指して星川と競い合い、清水先生の高度な理論に悦びを感じていた僕にとって、そのプリントは僕の知性を冒涜しているようにさえ感じられた。
(…… 1 + x = 5 。 x を求めよ。……ふざけてる)
僕はシャーペンを動かすことなく、ただ白い紙を見つめ続ける。
先生。
先生がいない世界では、数学さえもその牙を失い、ただの記号の羅列に成り果ててしまう。
僕が求めていたのは、こんな平穏じゃない。僕の人生の重大な選択肢を壊し、その破片で僕の首を絞めるような、あの息の詰まるような愛憎劇だったのに。
「辻田くん、そこ、分からないかな?」
若手の女性教師が、お節介な笑みを浮かべて近づいてくる。
彼女は、僕がかつて一人の教師を社会的に抹殺し、その人生を粒子レベルまで粉砕した「毒」であることを知らない。僕をただの「心に傷を負った可哀想な被害者」だと思い込んでいる。
「……いえ。簡単すぎて、書く価値がないだけです」
僕が吐き捨てた言葉に、彼女は困惑したように眉を下げた。
そうだ。この場所には、僕の言葉の裏にある「深淵」を読み取れる人間は一人もいない。僕の「解答」に、本当の意味で採点をしてくれる人は、もう檻の向こう側だ。
窓の外では、新しい制服に身を包んだ「まともな」高校生たちが、期待と不安を交互に囀りながら坂道を登っていく。かつての僕が歩むはずだった、その輝かしい列の中に、今の僕の居場所はどこにもない。
僕の新しい居場所は、週に一度、雑居ビルの一室に通うだけの通信制高校という名の箱庭だ。
そこには、くだらないことを競うライバルも、僕を監視する冷徹な視線も、複雑な証明問題も存在しない。あるのは、ただ無為に流れていく時間と、それを消費することだけを目的とした、希薄な人間関係だけだった。
午前十時。
本来なら、一限目の授業が終わり、次の科目に向けた緊張感が教室を支配している時間だ。
けれど、僕の部屋は痛いほどの静寂に包まれている。母は、あの日以来、幽霊のように僕を避けてパートに出かけるようになった。テーブルの上に置かれた千円札と、コンビニのレジ袋。それが、今の僕をこの世界に繋ぎ止めている唯一の供給源だ。
僕はベッドから起き上がり、カーテンを開けずにスマートフォンの画面を点ける。
通知は一件もない。
あのアパートで、あの雪の夜に、僕を繋ぎ止めていた銀色の光はもう二度と熱を持つことはない。清水先生の連絡先は、警察の手によって物理的に、そして社会的に消去された。
僕は冷え切った指先で、画面に映る自分の顔を見つめる。
睫毛は相変わらず長いけれど、その奥にある瞳からは、先生を破滅に導いた時のあの鋭い光は失われていた。今の僕は、ただの「空集合」だ。中身のない、定義されない、ただそこに存在するだけの数字。
僕は湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れる。
春休み、あの海沿いの別荘で、先生が毒薬のように啜っていたあの泥水を思い出す。
先生がいないキッチン。
先生の残り香すらしない、この殺風景な四畳半。
僕は、先生から教わった「最短距離」で朝の準備を済ませるが、急ぐ理由はどこにもなかった。
昼過ぎ、僕は重い足取りで通信制高校のスクーリングへ向かう。
駅前の雑居ビル。エレベーターを降りると、そこには不登校経験者や、事情を抱えた少年少女たちが、それぞれの孤独を抱えて座っていた。
教室(と呼ぶにはあまりに事務的な空間)では、プリントが配られる。
内容は、中学一年生でも解けるような、あまりにも退屈な基礎問題ばかりだ。
かつて、難関私立校を目指して星川と競い合い、清水先生の高度な理論に悦びを感じていた僕にとって、そのプリントは僕の知性を冒涜しているようにさえ感じられた。
(…… 1 + x = 5 。 x を求めよ。……ふざけてる)
僕はシャーペンを動かすことなく、ただ白い紙を見つめ続ける。
先生。
先生がいない世界では、数学さえもその牙を失い、ただの記号の羅列に成り果ててしまう。
僕が求めていたのは、こんな平穏じゃない。僕の人生の重大な選択肢を壊し、その破片で僕の首を絞めるような、あの息の詰まるような愛憎劇だったのに。
「辻田くん、そこ、分からないかな?」
若手の女性教師が、お節介な笑みを浮かべて近づいてくる。
彼女は、僕がかつて一人の教師を社会的に抹殺し、その人生を粒子レベルまで粉砕した「毒」であることを知らない。僕をただの「心に傷を負った可哀想な被害者」だと思い込んでいる。
「……いえ。簡単すぎて、書く価値がないだけです」
僕が吐き捨てた言葉に、彼女は困惑したように眉を下げた。
そうだ。この場所には、僕の言葉の裏にある「深淵」を読み取れる人間は一人もいない。僕の「解答」に、本当の意味で採点をしてくれる人は、もう檻の向こう側だ。
