精神崩壊

 ――社会から「死んだ」ことにされた僕と、社会から「抹殺」された清水。二人の春休みは、止まった時計の針の上を歩くような、奇妙で不気味な静寂に包まれていた。
 彼らが身を寄せたのは、清水が離婚の際に手放し損ねた、海沿いにある古い別荘地の一角だった。そこは潮風に晒されて外壁が剥げ落ち、カビと砂の匂いが染み付いている。けれど、そこは誰の視線も届かない、二人だけの「ゼロ」の空間だった。
 朝、僕は清水が目覚めるより早く起き、冷え切ったキッチンで湯を沸かす。
 かつての「優等生」の面影はもうない。ボサボサに伸びた髪を指で梳き、サイズの合わない清水の古いシャツを羽織る。かつてはミリ単位の狂いもなくビーカーを並べていたその指先は、今やトーストを焼くことさえおぼつかない。
 
「先生、コーヒー。 淹れたよ」
 清水は、無精髭に覆われた顔を上げ、僕が差し出したマグカップを黙って受け取る。
 かつての清水なら、豆の挽き方や温度にまで「正解」を求めたはずだ。だが、今の彼は、僕が淹れた泥水のように苦い液体を、至高の毒薬を飲むように啜る。
 二人の間に会話はほとんどない。ただ、波の音と、古い冷蔵庫が発する低いうなり声だけが、部屋の輪郭を形作っている。
 午後の日差しが差し込むと、二人は砂浜へ出た。
 僕は、砂の上に幾何学模様を描いては、波がそれをさらうのをじっと見守る。
「ねえ、先生。あそこで笑っている子供たち、何が見えているのかな。僕たちのこと、見えているのかな」
 
 清水は、僕の隣に腰を下ろし、彼の長い睫毛に付いた砂を指で払う。
 その手つきは、数学の難問を解く時のように慎重で、けれど底知れない愛着が込められていた。
『……彼らに、俺たちのこと分からない。俺たちが何を失い、何を手に入れたのか。それを分かる者は、この世に存在しないんだから』
 清水の言葉は、以前のような威厳を失っていた。けれど僕にとって、その掠れた声こそが、自分の肉体をこの現実に繋ぎ止める唯一の重りだった。
 夜、窓の外で春の嵐が吹き荒れる中、二人は一つの毛布にくるまり、互いの体温を確かめ合う。
 僕の指先は、清水の薬指に残った、指輪が消えた後の「白い跡」をなぞる。
「……先生。僕を、ずっと監視して。僕が呼吸を止めるその瞬間まで、僕を、先生の瞳の中に閉じ込めておいて」
『……分かっている。君が消えれば、おれという人間もまた、定義を失う。……俺たちは、互いの欠損でしか成立しない』
 清水は僕の頭を深く、深く抱きかかえる。
 その抱擁には、救いなど微塵もなかった。ただ、冷たい海の中で沈みゆく者が、隣の者にしがみつくような、無残な生存本能だけがあった。