――薫る春風は、まだどこか鋭い痛みを孕んでいる。
卒業式という名の、この六畳一間の「箱庭」から住人が追い出される儀式が終わった直後。校門付近は、不自然に明るい笑い声と、スマートフォンのシャッター音で溢れかえっていた。
誰もが、自分が「正解」のレールに乗ったことを疑わず、未来という光の中へ進もうとしている。
その喧騒から遠く離れた、無人の教室。
そこには、聖域から追放され、名前を剥奪された一人の男がいた。
清水先生は、かつての教壇に立ち、誰もいない机の列を眺めていた。懲戒免職という社会的死刑判決を受け、唯一の帰る場所であった家庭という居場所も離婚によって消滅した。今の彼は、ただの「無」だった。
その時だ。
引き戸が、音もなく開いた。
――雪の夜に死んだはずの「亡霊」が、そこに立っていた。
辻田 維月。
あんな小柄だった身体が少し大きく見えた。長い睫毛を伏せ、かつて誰よりも美しかったあの横顔。彼は卒業式の主役たちとは正反対に、どこか現実味のない透明な空気を纏っていた。
『……生きていたのか』
清水先生の声が、かすかに震える。
僕は答えず、ゆっくりと歩み寄った。
窓際では、かつて春の日差しに当てられて、初日から腕を枕に眠っていた奴もいた。不慣れなベルトに手こずり、必死に隣に助けを求める男子も。あの早瀬も。
廊下側では、新品のバッグにジャラジャラとぬいぐるみを付けていた女子たちも。髪を巻いた派手なあの咲も。その後ろでニヤニヤしていた女子も。教室を走り回っていた愚かな男子も。赤い紙を破る時、嫌味を投げた泣き虫の女子も。
そして、僕が精神を蹂躙した、あの難関私立を目指していた星川も。
数日後の合格発表、彼らは全員、受験に受かっていた。
けれど、僕たちは違う。
僕は「被害者」という名目の裏で、事件の特殊性から学校にいられなくなり、自主退学という形で受験資格を喪失した。合格点には十分届く力がありながら、解答用紙を埋める資格さえ与えられなかった彼は、事実上の「不合格」だった。
先生の指先によって、そして自らの執着によって、未来という徹底的に粉砕されていた。
「先生……これ、もういらないよね」
僕は、自分のポケットから一つの銀色の輪を取り出した。先生がかつて薬指にはめていた、唯一の帰る場所を象徴していたはずの指輪。離婚し、居場所を失った先生が、あのアパートに置き捨てていたもの。
僕はそれを窓から外へと放った。銀色の光が弧を描き、春の泥濘んだ海へと消えていく。
「……数式とか、変数とか、最短距離とか、証明なんて……クソ喰らえだよ」
僕が吐き捨てた言葉は、かつての彼からは想像もできないほどに剥き出しで、不純だった。
論理で守られた聖域なんてどこにもなかった。あるのは、ドロドロとした執着と、壊れきった二人の体温だけだ。
これでようやく、僕たちは本当の意味で一つになれる。
そう確信し、二人が手を取り合おうとしたのだ。
卒業式という名の、この六畳一間の「箱庭」から住人が追い出される儀式が終わった直後。校門付近は、不自然に明るい笑い声と、スマートフォンのシャッター音で溢れかえっていた。
誰もが、自分が「正解」のレールに乗ったことを疑わず、未来という光の中へ進もうとしている。
その喧騒から遠く離れた、無人の教室。
そこには、聖域から追放され、名前を剥奪された一人の男がいた。
清水先生は、かつての教壇に立ち、誰もいない机の列を眺めていた。懲戒免職という社会的死刑判決を受け、唯一の帰る場所であった家庭という居場所も離婚によって消滅した。今の彼は、ただの「無」だった。
その時だ。
引き戸が、音もなく開いた。
――雪の夜に死んだはずの「亡霊」が、そこに立っていた。
辻田 維月。
あんな小柄だった身体が少し大きく見えた。長い睫毛を伏せ、かつて誰よりも美しかったあの横顔。彼は卒業式の主役たちとは正反対に、どこか現実味のない透明な空気を纏っていた。
『……生きていたのか』
清水先生の声が、かすかに震える。
僕は答えず、ゆっくりと歩み寄った。
窓際では、かつて春の日差しに当てられて、初日から腕を枕に眠っていた奴もいた。不慣れなベルトに手こずり、必死に隣に助けを求める男子も。あの早瀬も。
廊下側では、新品のバッグにジャラジャラとぬいぐるみを付けていた女子たちも。髪を巻いた派手なあの咲も。その後ろでニヤニヤしていた女子も。教室を走り回っていた愚かな男子も。赤い紙を破る時、嫌味を投げた泣き虫の女子も。
そして、僕が精神を蹂躙した、あの難関私立を目指していた星川も。
数日後の合格発表、彼らは全員、受験に受かっていた。
けれど、僕たちは違う。
僕は「被害者」という名目の裏で、事件の特殊性から学校にいられなくなり、自主退学という形で受験資格を喪失した。合格点には十分届く力がありながら、解答用紙を埋める資格さえ与えられなかった彼は、事実上の「不合格」だった。
先生の指先によって、そして自らの執着によって、未来という徹底的に粉砕されていた。
「先生……これ、もういらないよね」
僕は、自分のポケットから一つの銀色の輪を取り出した。先生がかつて薬指にはめていた、唯一の帰る場所を象徴していたはずの指輪。離婚し、居場所を失った先生が、あのアパートに置き捨てていたもの。
僕はそれを窓から外へと放った。銀色の光が弧を描き、春の泥濘んだ海へと消えていく。
「……数式とか、変数とか、最短距離とか、証明なんて……クソ喰らえだよ」
僕が吐き捨てた言葉は、かつての彼からは想像もできないほどに剥き出しで、不純だった。
論理で守られた聖域なんてどこにもなかった。あるのは、ドロドロとした執着と、壊れきった二人の体温だけだ。
これでようやく、僕たちは本当の意味で一つになれる。
そう確信し、二人が手を取り合おうとしたのだ。
