精神崩壊

 テスト返却のあの日を境に、僕の存在は学校という組織から完全に「抹消」された。自主退学の書類に母が震える手で判を押した時、僕の義務教育という名のレールは音を立てて断裂した。
 
 二月。季節の寒波が街を覆い、鉛色の空から重たい雪が静かに、それでいて拒絶するように舞い落ちていた。
 自主退学の書類に母が震える手で判を押したあの日から、僕の部屋は「社会」と切り離された完全な真空地帯となった。一歩部屋を出れば、そこには死臭のような絶望が漂っている。
 朝、リビングに降りると、母は焦点の定まらない瞳でテレビのニュースを眺めていた。テーブルの上には、コンビニで買ってきたであろう冷え切ったパンが一つだけ置かれている。
「……あんた、今日だったんでしょ。あの日、先生と約束してた受験」
 母の声は、もはや感情を失った録音テープのようだった。
「お母さん、もう外に出られないわ。ご近所の目が、全部針みたいに突き刺さるの。あんたさえ、あんな事件さえ起こさなければ、私はまだ『誇らしい母』でいられたのに」
 僕はその言葉を、窓ガラスを打つ雪の音と同じ雑音として聞き流した。お母さん、それこそが僕たちの「正解」なんだよ。僕という不純物を必死に隠して、先生という立派な外装で飾ろうとした歪な家庭。そのメッキが剥がれただけのことだ。僕は母に背を向け、一口も触れずに部屋へ戻った。

 僕はベッドに深く沈み込み、スマホを起動した。ニュースのトップには、先生の公判開始を告げる文字が並んでいる。
『元教師、教え子への不適切行為と暴行で起訴――法廷で沈黙を貫く』
 画面越しに見る先生の姿は、以前のアパートで見た時よりもさらに痩せこけ、知性の欠片も感じられないほどに憔悴していた。裁判官が読み上げる「教育者としての自覚」「一方的な執着」という言葉の数々。
 滑稽だ。世間はあんな紙切れのような言葉で、僕たちの間に流れていたあの熱を、あの共犯関係を定義できると思っている。先生を奈落へ突き落としたのは僕の指先であり、その奈落の底で僕の首を絞め、唯一の「人間」として認めてくれたのは先生だ。
 僕はポケットの中で冷たくなったスマホの筐体を愛おしく撫でた。先生。いま、先生の心にある数式は、僕が最後に教えた「ゼロ」で満たされている?

 昨日、街は受験生たちの熱気で溢れていた。
 かつて先生が僕に期待し、僕もまた先生に応えるために目指していたあの超難関高校。その正門を、僕は昨日、遠くの並木道から眺めていた。
 模範解答を必死に思い出しながら門をくぐる少年たちの背中。彼らが手にしている「未来」という名のチケットは、僕の手からはもう完全に滑り落ちている。退学という経歴、そして報道された「あの事件」の当事者という事実は、僕の選択肢を物理的に、そして永久に消し去った。
 受験日の翌日。朝、目覚めた瞬間に感じたのは、恐ろしいほどの軽やかさだった。
 もう、解かなければならない問題はない。目指すべき順位もない。誰かに期待される「正解」を演じる必要も、母を安心させる「記号」でいる必要もない。
 自室の机の上には、鉛筆の跡一つない真っ白な赤本が転がっている。
 僕はその表紙をゆっくりとなぞり、それから静かにゴミ箱へ捨てた。
 未来がない。居場所がない。希望がない。
 ――純粋で、歪な『自由』だった。

 僕は、薄いコート一枚だけを羽織り、スマホと財布を鞄に入れて家を出た。
 母はリビングのソファで丸まり、僕が玄関を開ける音にすら気づかない。
 一歩外へ出ると、冷たい空気が肺の奥まで侵食してきた。街の輪郭は雪によって曖昧になり、通行人の顔も、信号機の光も、すべてが真っ白な虚無の中に溶け出していく。
 僕は歩き続けた。行き先なんて、最初から決まっていた。
 あの公園。先生と出会い、数式を解き、そして二人で堕ちていった、僕たちの聖域。
 池は薄い氷に覆われ、その上にも容赦なく雪が降り積もっている。ベンチに腰を下ろすと、身体の芯から感覚が失われていくのがわかった。
「……僕は、もうどこにもいない」
 呟いた声は、風にさらわれて消えた。
 僕はポケットからスマホを取り出し、凍りついた池の淵にそっと置いた。
 先生が買い与え、僕を監視し、そして僕が先生を破滅させた「共犯者の証」。
 液晶に雪が降りかかり、その光がゆっくりと見えなくなっていく。僕を繋ぎ止めていた最後の紐が、ぷつりと切れる音がした気がした。
 僕が歩いてきた道に点々と続く足跡も、数分後には新雪が覆い隠していく。
 世界から、僕という変数が消去されていく過程。それは、僕がこれまで解いてきたどの数学問題よりも、完璧で、矛盾のない証明だった。

 翌朝、僕の部屋はもぬけの殻だった。
 開け放たれた窓から吹き込んだ雪が、机の上を白く染めている。
 母の狂乱した叫び声も、警察の懸命な捜索も、ネット上に流れる「被害少年の失踪」という無責任な憶測も、今の僕には届かない。
 僕は、雪の降る街のどこかへと溶けて消えた。
 誰も僕を見つけることはできない。
 なぜなら、僕は自分という数式を解くことを、自らの意志で止めたからだ。
 雪の下で、銀色のスマホが一度だけ、着信を告げて震えたかもしれない。
 けれど、それに答える指は、もうこの世界のどこにも存在しなかった。
 ――「僕」という変数は、この冬、永遠の未解決問題として処理された。