精神崩壊

 ――虫の音がうるさく、いよいよ初夏の幕開けを告げる合図が轟いた。
 僕は暗い部屋の中で、一人で笑った。
 首には、今も先生の指の跡が、熱を持って刻まれている。この消えない痕跡こそが、僕が手に入れた唯一の「合格通知」だ。
「……あは、あはははは!」
 何もかも失った。
 学歴も、居場所も、世間体も、母の信頼も。
 けれど、僕と先生は、ようやく同じ場所へ辿り着いたんだ。
 社会という数式から放り出された、孤独な「ゼロ」。
 僕はスマホを手に取り、真っ暗な画面に映る自分の顔を見つめた。
 そこにいたのは、かつての怯えた生徒ではない。
 先生を壊し、自分も壊れ、その瓦礫の上で高らかに笑う、新しい「怪物」だった。
 嵐の夜が明ける頃、僕たちの新しい数式が、誰にも解けない形で、ゆっくりと書き換えられようとしていた。

 笑い声が、夜の湿った空気に吸い込まれて消えていく。
 ふと、窓の外に目をやると、街灯に照らされた若葉が、毒々しいまでの鮮やかさで揺れていた。春の嵐が過ぎ去った後の世界は、驚くほど平然とした顔をして、また新しい季節を始めようとしている。
 けれど、僕の時間は、あの日の準備室で、あるいはあのアパートの薄汚れた床の上で、永遠に止まったままだ。
 僕は机の上に散らばった、解かれることのない参考書を一箇所に集めた。それらはもう、僕の知性を証明するための道具ではない。かつて僕を支配し、そして僕が破壊した「正しさ」という名の瓦礫の山だ。
 僕はその山の一番上に、そっと藍色のガラスペンを置いた。
「さようなら、中学三年生の可哀想な僕」
 鏡の中に映る僕は、もう泣き方も、怯え方も忘れてしまったようだ。
 首に残るあの指の跡は、薄くなるどころか、僕の皮膚の一部として深く、濃く馴染んでいく。それは、この世界で僕だけが「清水先生」という人間の本質に触れたという、絶対的な刻印。
 母が扉の向こうで、また力なく泣き始めた。
 父が逃げ出し、先生が壊れ、最後には息子まで失った彼女の慟哭。
 けれど、今の僕にはその声さえも、遠い海の鳴動のようにしか聞こえない。僕はもう、彼女の数式の一部ではないし、誰かの人生の穴埋めをするための数字でもない。
 僕はスマホの電源を落とした。
 一瞬で訪れた完全な暗闇の中で、僕の意識だけが冴え渡っていく。
 学歴も、未来も、期待も、すべてを焼き尽くした後に残ったのは、純粋な「ゼロ」だった。
 何もない。どこへも行けない。
 だからこそ、僕はどこまでも自由だ。
 先生。
 僕たちはこれから、どんな不可能な解を導き出そうか。
 誰もいない、光すら届かないこの深淵の底で、僕たちの「真実」を。
 夜が明ければ、僕はもう、ただの子供ではいられないだろう。
 足元で蠢く初夏の気配を感じながら、僕は新しい自分という怪物の産声を聞いた気がした。