精神崩壊

 数日後、教室にはテスト返却特有の、湿り気を帯びた緊張感が漂っていた。
 返却される答案用紙の点数に一喜一憂し、合計点を競い合うクラスメイトたち。かつてはその輪の中に、僕もいたはずだった。けれど今の僕にとって、その点数は単なる「インクのシミ」以上の価値を持たない。
 教壇に立つ教師が、不機嫌そうに僕の名前を呼んだ。
「……維月。お前、これはどういうつもりだ」
 差し出された数学の解答用紙は、名前以外、真っ白だった。
 無機質な『0』という数字が、赤い太マジックで大きく書き込まれている。
 教室中が息を呑むのがわかった。かつて学年順位で一桁を争っていた僕が、白紙回答で『0点』を取った。その事実は、真面目に勉強してきた彼らにとって、僕が完全に「狂った」ことを証明する何よりの証拠だった。
「先生、何かおかしいですか?」
 僕は首を傾げ、淡々と問い返した。
「解く必要がないから、解かなかった。それだけです。最短距離で考えれば、このテストに今の僕が費やす時間は、ゼロでいいはずですから」
 かつての清水先生の口癖を引用すると、教師は顔を真っ赤にして絶句した。
 僕はその0点の答案を無造作に掴むと、自分の席へと戻る。通りすがりに、星川くんの机が目に入った。
 彼の答案には『82』という数字。
 普段なら喜ぶべき点数かもしれない。けれど、難関校を目指す彼にとって、それは「致命的なミス」を意味する数字だった。僕が休み時間に囁いた揺さぶり。それが、彼の思考を、彼の数式を、確実に狂わせていた。
「……あ」
 星川くんの喉から、押し殺したような呻きが漏れた。
 彼は震える手で答案を握りしめ、僕を、まるで汚物を見るような、それでいて心の底から恐怖しているような目で見つめた。
 僕は彼にだけ見えるように、薄く、優雅に微笑んでみせた。
「言ったでしょ? 手が震えるよって」
 僕が手に入れた『0点』と、彼が必死に掴み取った『82点』。
 価値があるのはどちらだろう。
 社会的な評価は彼に軍配を上げる。けれど、この瞬間、彼を精神的な支配下に置いているのは、間違いなく『(ゼロ)』になった僕の方だ。
 先生。
 先生が教えてくれた数学の世界では、ゼロは何を掛けてもゼロにする、最強の数字だった。
 今の僕は、まさにその通りだ。
 僕と関わるすべての「正解」を、僕は自分の手で、虚無へと塗り替えていく。
 教室を包む沈黙。それは僕への畏怖であり、同時に、僕がこの「正しさの箱庭」から完全に決別したことを告げる、終わりのチャイムでもあった。