精神崩壊

 寒さで思考が白く濁っていく中、僕の閉じた瞼の裏には、あのアパートでの「理性の決壊」が鮮明な色彩を持って蘇っていた。
 警察が踏み込む直前、僕を床に押し倒した先生の手は、僕の首を絞めるためだけにあったのではない。殺意と、それ以上の、言葉にできないほど歪んだ「執着」がそこにはあった。
 先生の指先が僕の肌に食い込み、呼吸を奪う。死の恐怖。けれど次の瞬間、先生は憑き物が落ちたように力を抜き、震える唇で僕の額に、そしてまぶたに、祈るような、あるいは呪うような深い口づけを落とした。
『……先生を、こんなところまで引きずり下ろして、満足か』
 先生の涙が僕の頬を濡らし、混じり合う。それは愛と呼ぶにはあまりに鋭利で、暴力と呼ぶにはあまりに悲しい、僕たちだけの契りだった。先生は僕の体を強く抱きしめ、折れそうなほど力を込めて、その胸の中に僕を閉じ込めようとした。あの時、僕たちの境界線は確かに消滅し、二人の「数式」は一つの解へと収束したのだ。
 ――そして今、雪の降る廃屋の静寂の中に、あの時と同じ「足音」が響いた。
「……先生?」
 目を開けると、そこには幻影のように先生が立っていた。
 保釈中なのか、あるいは僕を探してここまで来たのか。先生の肩には雪が積もり、眼鏡の奥の瞳は、かつての冷徹な光を失い、ただ僕という「変数」だけを求めて彷徨っている。
 先生は何も言わず、凍えきった僕の傍らに膝をついた。
 震える僕の肩を、あの日のアパートと同じ、強すぎるほどの力で抱き寄せる。先生のコートから香る、冷たい雪の匂いと、微かなタバコの残り香。それは母の柔軟剤の匂いよりも、ずっと僕を安心させた。
『……馬鹿なことを。こんな場所で、一人で「解」を出したつもりか』
 先生の声が耳元で響く。先生の温かい手が、僕の冷え切った頬を包み込み、ゆっくりと引き寄せた。
 触れ合う唇は、驚くほど冷たく、けれど心臓の鼓動を直に伝えるほど激しく震えている。それは、社会的な正解をすべて捨て去った二人が、奈落の底で交わす無言の署名だった。
 先生は僕を強くハグし、僕の背中に顔を埋めた。僕もまた、感覚のなくなりかけた腕で、先生の壊れた背中にしがみつく。
 
「先生……僕、もうどこにも行けないよ。なんかもう全部壊れちゃった気がする」
『ああ。先生も同じだ。……先生たちは、もう戻れない』
「ええ、そうね」
 雪が二人を包み込み、壁に書かれた数式を白く塗りつぶしていく。
 先生の抱擁は、救いであると同時に、僕を一生離さないという呪縛でもあった。