精神崩壊

 先生が懲戒免職となり、アパートを引き払うという噂をネットの海で拾ったのは、嵐が止んだ翌日の夕暮れだった。僕は吸い寄せられるように、かつて一度だけ「視察」に訪れたことのある、あの古びたアパートへと向かった。
 そこには、かつての「最短距離」を体現したような整然さは微塵もなかった。
 開け放たれたドア。廊下まで漂ってくる酒の腐ったような臭い。僕は呼吸を整え、ゆっくりとその境界線を越えた。
「先生……会いに来たよ」
 奥の部屋から聞こえてきたのは、衣擦れの音と、重苦しい喘ぎ。
 這い出してきたのは、僕の知っている「清水先生」ではなかった。
 皺一つなかったスーツは脱ぎ捨てられ、汚れの目立つシャツのボタンは掛け違えられている。無精髭に覆われた顎、充血し、焦点の定まらない瞳。あんなに美しかった黒髪には、白いものが混じっているようにさえ見えた。
『……維月。また、来たのか』
 掠れた声。かつて準備室で僕を支配していた、あの理知的な響きは死に絶えていた。
 部屋の隅には、僕が愛の証として贈った、あの藍色のガラスペンが転がっている。インクは乾き、ペン先には埃が積もっていた。その無惨な光景を見た瞬間、僕の胸の奥で、かつてないほどの熱が再点火した。
「先生、今の姿、最高に素敵だよ。僕が、先生を完成させたんだね」
 僕は歩み寄り、膝をついて先生の顔を覗き込んだ。
 地位を失い、名誉を奪われ、家族に捨てられ、たった一人で泥濘に沈む男。
 完璧だった結晶が粉々に砕け、その破片の一つ一つが僕の存在を証明している。
 全能感が、僕の指先を震わせた。