精神崩壊

 先生が懲戒免職になり、アパートを引き払うという噂を聞きつけた夕暮れ。
 ボクは、先生の家の近くにある公園で、彼が姿を現すのを待っていた。
 この公園は、以前、二人で準備室へ向かう時に通り過ぎた場所だ。
 あの時の先生は、皺一つないスーツを纏い、眼鏡の奥で冷徹な知性を光らせていた。『維月、歩幅が乱れているぞ』とボクを窘めた、あの凛とした姿。ボクはその「正解」の結晶のような先生に憧れ、そして同時に、その手で壊したいと切望していた。
 これから現れるのは、その結晶が粉々に砕け散った、泥まみれの破片だ。そう思うだけで、指先が歓喜で微かに震えた。
 足音が聞こえる。
 かつての正確なリズムではない。引きずるような、重く、惨めな足音。
 
 ――そこには、ボクの知っている「清水先生」はいなかった。
 皺一つなかったスーツは薄汚れ、背中は丸まり、あんなに美しかった黒髪は乱れ放題だった。何より、あの完璧な表情を支えていた眼鏡が、片方だけ無惨にひび割れている。
 ボクの視線に気づいた先生が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての冷徹な光など微塵もなく、ただ底知れない絶望と、縋るような怯えが混じり合っていた。
『……維月。どうして、こんなことを』
 掠れた、力のない声。かつてボクの鼓動まで支配していたあの威厳は、もうどこにもない。
 その瞬間、ボクの胸の奥で、消えかけていた熱が猛烈な勢いで再点火した。
 
 あんなにボクを支配し、所有物として扱ってきた強大な男が、今はボクの一つの投稿で、地を這う虫のように惨めな姿を晒している。ボクの人生を塗りつぶしたあの黒いインクが、今度は先生自身を飲み込んでいる。
 
(ああ……なんて美しいんだろう)
 
 完璧だった頃の先生は、ボクを檻に入れる主人だった。けれど、すべてを失い、ボクによって破壊された今の先生は、世界でボクだけが「理解」し、「救ってあげられる」存在になった。
 ボクは一歩、先生に近づいた。
 震える先生の肩に、かつて彼がしたように、ゆっくりと、けれど確かな重みを持って手を置く。
「先生……。ねえ、今の先生の方がずっと素敵だよ」
 ボクの指先が、ひび割れた眼鏡の縁をなぞる。
 先生を完成させたのは、教科書でも、立派な肩書きでもない。ボクという「変数」が引き起こした、この完璧な崩壊だったんだ。
 ボクはポケットから、あの銀色のスマホを取り出した。先生がボクを縛るために買い与え、そして今、先生自身の人生を焼き尽くした火種。それを先生の目の前にかざして、ボクはこれ以上ないほど愛らしく、そして冷酷に微笑んだ。
「ていうか先生、子供にスマホ持たせちゃったらダメでしょ? 持たせたらこんな風になっちゃうんだよ。……ボクを『完璧』にしようとした先生が、一番大事なルールを忘れちゃうなんてね」
 先生の喉が、ヒュッ、と短く鳴った。
 かつて準備室でボクに「無駄を省け」と説いていたあの理知的な唇が、今はただ絶望に震えている。ボクが教えられた通り「最短距離」で先生を破滅させたことを、この人はどう思っているんだろう。
「もう誰の視線も気にしなくていいよ。ボクが、先生を一生、監視してあげるから」
 ボクは、かつてない全能感に包まれながら、目の前の惨めな男に、二度目の、そして本当の恋をした。
 
 光る画面の裏側で育てたボクの裏の顔が、今、先生という獲物を優しく、深く、飲み込んでいく。
 夜の帳が下りる公園で、二人の影は一つに重なり、ボクたちの新しい「数式」が書き換えられていった。