精神崩壊

 ――投稿ボタンを押した瞬間から、ボクの指先にある銀色のスマホは、もはや連絡手段ではなく、先生という偶像を破壊するための「兵器」と化した。
 ボクはカーテンを閉め切り、暗闇の中で掲示板の「実況スレ」を眺めていた。画面のスクロールが止まらない。
『【悲報】藍之宮中の数学教師、生徒にガチ恋監視。証拠スクショあり』
 そんなスレッドが次々と立ち上がり、匿名の悪意が奔流となって押し寄せる。
『特定班まだー?』
『こいつ、3年前の教育雑誌に載ってた清水じゃね? 受賞歴ありの「完璧主義」w』
『住所、藍之宮2丁目のアパートで確定。現在、学校に電凸中』
 ボクはそれらを、先生がテストの答案を採点するように、一つ一つ丁寧に読み進める。
「……正解。そう、そこが先生の弱点だよ。完璧であればあるほど、一度ヒビが入れば全部崩れるんだ」
 ボクが投げた小さな火種を、名もなき群衆が巨大な劫火に育て上げ、先生の人生という数式を焼き尽くしていく。その光景は、どんな数学的証明よりも美しく、完璧だった。
 部屋に引きこもって三日が過ぎる頃、ボクの体は奇妙な変質を遂げていた。
 食事は喉を通らず、母がドアの前に置くトレイは手付かずのまま放置されている。胃袋は空っぽなのに、不思議と空腹は感じなかった。ただ、スマホから放たれる青白い光だけが、ボクの血管を流れる新しい栄養分であるかのように思えた。
 鏡を見る必要もなかった。今のボクは、肉体を持った中学生というよりも、スマホの画面と一体化した「意識」そのものだった。指先はキーボードを叩くためだけに細く、白く、鋭く研ぎ澄まされ、瞳は暗闇の中で情報を追い続けるために異常なほど見開かれている。
 暗い部屋の中で、画面が休むことなく明滅を繰り返す。
『これマジ?』『藍之宮中の教師かよ、特定はよ』『キモすぎる……完全にアウトだろ』
 青白い光がボクの顔を幽霊のように照らし、通知音が鳴るたびに、ボクの心臓は心地よい高揚感に震えた。ボクが綴った、深夜の監視や「部屋を見せろ」という執着。それに裏付けられたスクリーンショットが、匿名の善意と悪意に油を注がれ、爆発的な勢いで拡散されていく。
 かつて先生が愛用していた「最短距離」という言葉が、皮肉な残響となって脳裏に響く。ネットの海では、疑惑は最短距離で「事実」へと変換され、先生が心血注いで築き上げた清潔な聖域を、どす黒い汚泥となって侵食していった。
 ボクはただ、指先一つでその光景を眺めていた。先生がボクに教えた「論理的な解決」を、ボクは先生自身を消去するために使ったんだ。
 だが、こうなる数日前まで、ボクはまだ「希望」という名の毒に浮かされていた。
 あの日、準備室で見た先生の左手。いつも冷たく光っていたプラチナの環が、忽然と消えていたのだ。
「……ない。外してくれたんだ。ボクのために、あの不純物を捨ててくれたんだ!」
 指の付け根に残るわずかな跡さえ、ボクへの無言の招待状に見えた。ボクは衝動的に先生の懐へ飛び込み、その体温に溺れた。先生は拒まず、夕暮れの静寂の中で、ボクの呼吸を奪うように深く受け入れた。ボクは自分が先生の「唯一」になったのだと、狂おしいほどの陶酔に身を任せていた。
 けれど、その完璧な夢は、ボクが愛の証として贈った藍色のガラスペンを巡る、先生のあまりに冷酷な一言で崩れ去った。
『指輪? あんなものは邪魔だから外しただけだ。深い意味なんてない』
 ボクが運命だと信じたあの隙間は、先生にとっては単なる「無関心」の表れに過ぎなかった。ボクという存在は、先生の数式を乱さない程度の、取るに足らない変数でしかなかったのだ。
 その絶望が、ボクを「兵器」へと変えた。