精神崩壊

 パタン、とドアが閉まる。
 ボクの「聖域」だったはずの部屋は、一瞬にして二人きりの密室、あの準備室と同じ「檻」へと変質した。
 先生はベッドに腰掛けたまま、ゆっくりと部屋の中を見渡した。その視線は、ボクのプライベートを剥ぎ取るような、ねっとりとした熱を帯びている。
『……維月。不登校の間、この部屋で何を考えていた?先生の教えを無視して、どんな濁った時間を過ごしていたんだ?』
 先生が立ち上がる。一歩、一歩と距離を詰められ、ボクは壁際に追い詰められた。先生の手がボクの肩を掴み、逃げ場を塞ぐ。
『隠しているものを、すべて部屋(ここ)で見せろ。……維月のクローゼットの中も、机の引き出しの奥も、その震える指先が隠しているスマホの画面も』
「……や、やめて。見ないで……っ」
 ボクの拒絶など、先生には届かない。先生の眼鏡の奥の瞳は、まるで標本を解剖する学者のように、ボクの生活のすべてを暴き、支配下に置こうと爛々と輝いていた。
『維月、スマホの電源を切るのは、計算を途中で放棄するのと同義だぞ』
 先生の手が、ボクの頭に伸びる。
 ボクは反射的に身をすくめたが、先生の指先は逃がしてはくれなかった。髪の分け目を整えるように、ゆっくりと、執拗にボクの頭をなぞる。
 
『外ではお母様が、あんなに熱心に君の復帰を望んでいる。……君のこの「乱れ」は、家族の調和さえも乱しているんだ。分かっているな?』
 先生は知っている。ボクが母を嫌悪していることも、母がボクを叩いてきたことも。
 それを分かった上で、あえて「お母様のため」という言葉を使い、ボクの罪悪感を数式のように利用して追い詰めてくる。
 先生の左手の薬指。そこにある結婚指輪が、夕陽を浴びて鈍く光る。
 この男は、ボクを「不純物」として扱いながら、自分だけは「家庭」という別の安全圏を持っていて、そこで誰かに愛されている。
(……ボクの居場所は、ここにもないんだ)
 学校ではフレネミーに嘲笑われ、家では醜い女に戻った母に疎まれ、そしてこの部屋ですら、先生という巨大な瞳に監視されている。
 
「……帰ってよ」
 ボクの小さな声に、先生の指がピタリと止まった。
『なんだ?』
「帰って……先生なんて、大嫌い……っ」
 初めての明確な拒絶。
 先生の表情が、一瞬だけ不気味なほど無機質になった。それは「計算違い」に遭遇した学者が浮かべる、冷酷な好奇心に近い顔だった。
 先生はゆっくりと立ち上がり、ボクを見下ろした。
『……そうか。修正が必要なのは、学力だけではないようだな。維月、君を完璧に仕上げるための「特別演習」の場所を、変える必要があるようだ』
 先生はそう言うと、ボクの部屋の窓をピシャリと閉めた。
 その光景は、後に「熱心すぎる教師の異常な執着」として、この町の、そしてボクの人生の、取り返しのつかない炎上の種火となるのだった。