精神崩壊

 ――朝、目が覚めると、体が鉛のように重かった。
 カーテンの隙間から差し込む光が、あの銀色のスマホを照らしている。それを見た瞬間、喉の奥から苦いものがせり上がり、ボクは布団の中に潜り込んだ。
「……行きたくない」
 一度口に出すと、それは呪文のようにボクを支配した。先生の匂い、先生の足音、先生の視線。それらすべてが、ボクという個体を溶かして数式に書き換えていく。その恐怖に耐えるエネルギーは、もう一滴も残っていなかった。
 結局、ボクはその日から学校へ行くのをやめた。
 母は最初こそ「サボりじゃないの」とボクを叩いたが、三日も寝込むと、次第にボクへの関心を失ったようだった。スマホの電源は切った。あの銀色の筐体が震えないだけで、部屋の空気は驚くほど澄んで感じられた。
 けれど、その静寂は長くは続かなかった。
 不登校になって三日目の夕方。
 インターホンの音が、静まり返った家の中に鋭く響いた。
 一階で、母の弾んだ声が聞こえる。その声のトーンを聞いただけで、ボクの肌には嫌な粟が立った。入学式の日に見せた、あの「死んでいたはずの女」が這い出してきた時の声だ。
「あら、先生! わざわざすみません、わざわざうちの維月のために……。まあ、どうぞ上がってください。片付いてなくて恥ずかしいわぁ」
 わざとらしい笑い声。しなだれかかるような仕草が、声の残響だけで脳裏に再生される。
 母は、ボクが不登校になったことの深刻さなんて考えていない。ただ、自分の理想を詰め込んだような「完璧な造形」の清水先生が自宅に来たことに、醜く色めき立っているだけだ。
 階段を上がってくる、あの規則正しい、けれど今はひどく威圧的な足音。ボクは部屋の隅で膝を抱え、震えながらドアを見つめた。
 ――コン、コン。
 準備室と同じ、正確なリズムのノック。
『維月、開けるぞ』
 鍵をかけていなかったドアが、ゆっくりと開く。
 夕陽を背負って部屋に入ってきた先生は、いつものように整ったスーツを纏い、眼鏡の奥で冷徹な瞳を光らせていた。その後ろから、母が顔を覗かせる。
「ほら、維月。先生がわざわざ来てくださったわよ。いつまで寝てるの、失礼でしょ」
 母の顔には、家で見せる疲れ切った生活感など微塵もなかった。口元には塗りすぎた紅が浮き、先生の視線を必死に捉えようと、目尻を卑しく細めている。
 吐き気がした。
 ボクを救うためではなく、自分の「女」を確認するための道具として先生を利用している母。そして、そんな母の安っぽい誘惑を、鏡のように無機質に反射して無視し続ける先生。
 先生は、ボクのベッドの端に腰を下ろした。その重みがマットレスを通じて伝わってくる。
 狭い子供部屋に、あの準備室の「コーヒーと洗剤の匂い」が充満していく。先生の視線は、部屋の隅々を――ボクが隠しているスマホの所在や、心の乱れを――無慈悲に検閲していく。
『お母様、少し維月と二人で話させていただけますか。……「教育」の時間ですので』
 先生が冷ややかに微笑むと、母は「まあ、頼もしいわぁ」と頬を染めて部屋を出て行った。