その日の指導が終わり、準備室を出て廊下を歩くボクの足取りは、ひどく覚束なかった。
外はすでに夜の帳が下り、校舎内は非常灯の緑色の光が不気味に伸びている。
ボクは階段の踊り場で立ち止まり、先生に締め直されたばかりの襟元に指をかけた。きつすぎる。呼吸をするたびに、先生の指の感触が喉に食い込んでいるようで、吐き気が胃の底からせり上がってくる。
ポケットの中で、あの銀色のスマホが短く震えた。
『無事に校門を出たか? 寄り道は許さない。最短距離で帰宅し、机に向かえ。維月の今日の「乱れ」を、家で完璧に修正するんだ』
画面を見なくても、内容が手に取るようにわかる。
ボクはスマホを握りしめた。冷たいアルミの筐体が、ボクの体温を奪っていく。
かつては「特権」だと思っていたこの重みは、今やボクを奈落へ引きずり込むための錨だ。
校門を出て、街灯の光の下に自分の影が伸びる。
その影さえも、先生が定めた数式通りの角度で動かなければならないような、そんな強迫観念が全身を縛り付けていた。
ふと、家々の窓から漏れる温かな光が目に入る。そこには、下らないテレビ番組に笑い、無駄な会話を楽しみ、不完全なまま愛されている「普通の人々」の生活がある。
(……ボクの人生には、もう「無駄」さえ許されないんだ)
先生が言った『不要な変数をすべて排除してあげよう』という言葉が、呪詛のように耳の奥で反芻される。
ボクの友達を奪い、時間を奪い、感情を削ぎ落とし、最後に残る「純粋な真理」とやらがボク自身であるはずがない。それは、先生の望む通りに動く、血の通わないただの「解答用紙」だ。
ボクは暗い夜道で、不意に立ち止まった。
胸の奥で、カチリと音がした気がした。
それは、先生がいつも正解を導き出した時に鳴らす、あの冷徹な万年筆の音によく似ていた。
「……死んじゃえばいいのに」
夜の静寂に溶けて消えたその呟きは、ボクが生まれて初めて、先生の数式を無視して導き出した、ボクだけの「解」だった。
ボクを独りにさせたあの男が。ボクを透明な檻に閉じ込めたあの男が。
愛と支配の境界線が完全に崩壊し、どろりとした嫌悪だけがボクの血を巡る。
準備室の黒に染められたボクの日常は、ここから、ゆっくりと、けれど致命的な速度で崩壊へと向かっていく。
ボクは、先生を「殺したいほど嫌い」という明快な答えに、ようやく辿り着いたんだ。
外はすでに夜の帳が下り、校舎内は非常灯の緑色の光が不気味に伸びている。
ボクは階段の踊り場で立ち止まり、先生に締め直されたばかりの襟元に指をかけた。きつすぎる。呼吸をするたびに、先生の指の感触が喉に食い込んでいるようで、吐き気が胃の底からせり上がってくる。
ポケットの中で、あの銀色のスマホが短く震えた。
『無事に校門を出たか? 寄り道は許さない。最短距離で帰宅し、机に向かえ。維月の今日の「乱れ」を、家で完璧に修正するんだ』
画面を見なくても、内容が手に取るようにわかる。
ボクはスマホを握りしめた。冷たいアルミの筐体が、ボクの体温を奪っていく。
かつては「特権」だと思っていたこの重みは、今やボクを奈落へ引きずり込むための錨だ。
校門を出て、街灯の光の下に自分の影が伸びる。
その影さえも、先生が定めた数式通りの角度で動かなければならないような、そんな強迫観念が全身を縛り付けていた。
ふと、家々の窓から漏れる温かな光が目に入る。そこには、下らないテレビ番組に笑い、無駄な会話を楽しみ、不完全なまま愛されている「普通の人々」の生活がある。
(……ボクの人生には、もう「無駄」さえ許されないんだ)
先生が言った『不要な変数をすべて排除してあげよう』という言葉が、呪詛のように耳の奥で反芻される。
ボクの友達を奪い、時間を奪い、感情を削ぎ落とし、最後に残る「純粋な真理」とやらがボク自身であるはずがない。それは、先生の望む通りに動く、血の通わないただの「解答用紙」だ。
ボクは暗い夜道で、不意に立ち止まった。
胸の奥で、カチリと音がした気がした。
それは、先生がいつも正解を導き出した時に鳴らす、あの冷徹な万年筆の音によく似ていた。
「……死んじゃえばいいのに」
夜の静寂に溶けて消えたその呟きは、ボクが生まれて初めて、先生の数式を無視して導き出した、ボクだけの「解」だった。
ボクを独りにさせたあの男が。ボクを透明な檻に閉じ込めたあの男が。
愛と支配の境界線が完全に崩壊し、どろりとした嫌悪だけがボクの血を巡る。
準備室の黒に染められたボクの日常は、ここから、ゆっくりと、けれど致命的な速度で崩壊へと向かっていく。
ボクは、先生を「殺したいほど嫌い」という明快な答えに、ようやく辿り着いたんだ。
