精神崩壊

 放課後の準備室は、外の世界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。夕陽が古い遮光カーテンの隙間から差し込み、宙に舞う埃を金色に染めている。しかし、その美しささえも、ボクにとっては冷徹な檻の装飾にしか見えなかった。
 ボクは先生のデスクの横に、微動だにせず立っていた。
 先生は、ボクが提出した演習ノートを、一本のガラスペンでなぞっている。
 ――チッ、チッ、と、硬質な先端が紙の繊維を削るような音が響く。
 インク瓶の縁でペン先を整える、わずかな残響。
 そして、青黒いインクを吸い上げる「溜まり」の重み。
 その静寂は、まるで見えない真綿で首を絞められているような圧迫感となってボクにのしかかる。先生がペンを動かすたびに、ボクのこれまでの努力が、あるいはボクという存在そのものが、不純物として切り捨てられていくような気がした。
『維月。この三行目だ。……数式が泣いているぞ』
 先生は顔を上げず、掠れた低い声で言った。その声は、耳の奥にこびりつくような粘り気を持っていた。
 先生が立ち上がる。椅子が床を擦る音が、ボクの神経を逆なでする。
『維月はまだ、自分という「ノイズ」を制御しきれていない。……ほら、ここもだ』
 先生の冷たい指先が、ボクの制服の袖口に触れた。
 わずかに(ほつ)れていた糸を、先生は無造作に引き抜く。鋭い痛みが走った気がしたが、ボクは声を出すことさえ許されない。
 先生の「検閲」は、ノートの中だけには留まらなかった。

『……維月、まただ。その襟元。少しよれているだけで、君という人間がひどく雑に扱われているように見えて、先生は耐えられないんだ。もっと自分を、大切に扱いなさい』
 先生の手が伸びる。ボタンを外す指先には、確かな熱があった。それは機械的な作業ではなく、自分の手で理想の形に整えたいという、抑えきれない独占欲に満ちた動きだった。
『ほら、こうして先生の手で正してあげないと……維月はすぐに、先生の目の届かないところで乱れてしまう。それが堪らなく不快で、同時に、先生が直してあげなきゃいけないという実感が、愛おしいんだよ』
「……愛おしい、?」
 さらに、先生の指はボクの髪へと伸びた。
『前髪が少し長いな。視界に余計な光を入れるなと言ったはずだ』
 指先が額をなぞり、髪の分け目をミリ単位で整えていく。それは「整容」などという生温いものではない。ボクという人間を、先生の理想とする「完璧な解答」へと仕立て上げるための、強制的な調律だった。
『……よし。これで、不必要な乱れ(エラー)は消えた』
 先生は満足げに目を細め、ボクの肩に手を置いた。その重みが、逃げ場のない現実を突きつける。
『いいか、維月。君の周りには、君を惑わせる「不要な変数」が多すぎる。あの低俗なクラスメイト、無価値な雑談、そして君自身の甘え……。先生がそれらをすべて排除してあげよう。君の人生から「無駄」を削ぎ落とし、純粋な真理だけを残してあげるんだ』
 愛を装った、冷酷な支配の言葉。
 先生の眼鏡の奥で光る瞳は、ボクを救おうとしているのではない。ボクを「所有」し、自分の支配下で美しく完成させようとしているだけなのだと、本能が警告を発していた。
「……はい、先生」
 絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
 準備室に充満する、あの特有のコーヒーの匂い。
 かつては「特別」な香りに感じられたそれが、今はボクを腐らせていく汚泥の臭いにしか感じられなかった。