――三時限目が終わった休み時間。ボクは誰とも目を合わせないように俯きながら、教室を抜け出した。
向かう先は、廊下の突き当たりにある男子トイレだ。そこは、今のボクにとって唯一、先生という巨大な視線から身を隠せる「個室」という名の聖域だった。
一番奥の個室に入り、鍵をかける。カチリ、という乾いた音が閉鎖された空間を完成させる。便座に座り、深く息を吐き出すと、ようやく心臓の鼓動が少しだけ落ち着いた。
ボクはカバンの底から、あの銀色のスマホを取り出した。
――震えた。
手の中で、それは生き物のように激しく、執拗に身悶えしていた。
通知画面には、メッセージが連投されている。
『維月、三時限目の数学の授業、姿勢が悪かったぞ。大腿骨と背骨の角度が垂直に保たれていない。集中力の欠如だ』
『さっき廊下で、隣のクラスの担任と目が合ったな。あれは不要だ。維月の脳は先生の数式だけを処理していればいい』
『返信が遅いぞ。今、どこにいる?』
一分おきに更新されるメッセージ。ボクが授業を受けている間も、ボクが廊下を歩いている瞬間も、先生はボクを「観測」し続けていたんだ。
個室の中は、消毒液の匂いが鼻を突く。
それなのに、ボクの鼻腔はあの準備室の「洗剤とコーヒーの匂い」に支配されているような錯覚に陥る。この壁の向こうに、あるいは天井の隙間に、先生の瞳が潜んでいるんじゃないか。
(逃げなきゃ。でも、どこへ?)
また、スマホが震えた。
『トイレか。一番奥の個室だな。維月、逃げるという行為は、問題の解決にはならない。すぐに戻ってこい』
指先が凍りついた。
先生は、ボクがどこにいるか分かっている。スマホのGPSなのか、それともボクの行動パターンをすべて数式化して予測しているのか。
ボクの「聖域」だったはずの個室は、瞬時にボクを閉じ込めるための「箱」へと変質した。
(先生とボクだけの秘密……嬉しい)
ついさっきまで抱いていたその感情が、足元から崩れ去っていく。
銀色のスマホが放つ青白い光が、ボクの顔を幽霊のように照らしている。画面をスクロールしても、先生、先生、先生。
ボクの人生の履歴は、この小さな機械の中で、彼という単一の変数によって暴力的に上書きされていた。
外から、クラスメイトたちの騒がしい声が聞こえてくる。
「辻田、またトイレにこもってんのかよ。あいつ、マジで何なんだよ」
嘲笑。困惑。疎外。
彼らの声は、厚い壁に遮られて遠い世界の雑音のように響く。
ボクを救うためのパイプだったはずのスマホは、今やボクをこの世界から切り離し、先生という名の深淵に引きずり込むための重りになっていた。
ボクは震える指で、電源ボタンを押し込んだ。
けれど、画面が暗転しても、ボクの首筋に絡みついた「先生の視線」が消えることはなかった。
向かう先は、廊下の突き当たりにある男子トイレだ。そこは、今のボクにとって唯一、先生という巨大な視線から身を隠せる「個室」という名の聖域だった。
一番奥の個室に入り、鍵をかける。カチリ、という乾いた音が閉鎖された空間を完成させる。便座に座り、深く息を吐き出すと、ようやく心臓の鼓動が少しだけ落ち着いた。
ボクはカバンの底から、あの銀色のスマホを取り出した。
――震えた。
手の中で、それは生き物のように激しく、執拗に身悶えしていた。
通知画面には、メッセージが連投されている。
『維月、三時限目の数学の授業、姿勢が悪かったぞ。大腿骨と背骨の角度が垂直に保たれていない。集中力の欠如だ』
『さっき廊下で、隣のクラスの担任と目が合ったな。あれは不要だ。維月の脳は先生の数式だけを処理していればいい』
『返信が遅いぞ。今、どこにいる?』
一分おきに更新されるメッセージ。ボクが授業を受けている間も、ボクが廊下を歩いている瞬間も、先生はボクを「観測」し続けていたんだ。
個室の中は、消毒液の匂いが鼻を突く。
それなのに、ボクの鼻腔はあの準備室の「洗剤とコーヒーの匂い」に支配されているような錯覚に陥る。この壁の向こうに、あるいは天井の隙間に、先生の瞳が潜んでいるんじゃないか。
(逃げなきゃ。でも、どこへ?)
また、スマホが震えた。
『トイレか。一番奥の個室だな。維月、逃げるという行為は、問題の解決にはならない。すぐに戻ってこい』
指先が凍りついた。
先生は、ボクがどこにいるか分かっている。スマホのGPSなのか、それともボクの行動パターンをすべて数式化して予測しているのか。
ボクの「聖域」だったはずの個室は、瞬時にボクを閉じ込めるための「箱」へと変質した。
(先生とボクだけの秘密……嬉しい)
ついさっきまで抱いていたその感情が、足元から崩れ去っていく。
銀色のスマホが放つ青白い光が、ボクの顔を幽霊のように照らしている。画面をスクロールしても、先生、先生、先生。
ボクの人生の履歴は、この小さな機械の中で、彼という単一の変数によって暴力的に上書きされていた。
外から、クラスメイトたちの騒がしい声が聞こえてくる。
「辻田、またトイレにこもってんのかよ。あいつ、マジで何なんだよ」
嘲笑。困惑。疎外。
彼らの声は、厚い壁に遮られて遠い世界の雑音のように響く。
ボクを救うためのパイプだったはずのスマホは、今やボクをこの世界から切り離し、先生という名の深淵に引きずり込むための重りになっていた。
ボクは震える指で、電源ボタンを押し込んだ。
けれど、画面が暗転しても、ボクの首筋に絡みついた「先生の視線」が消えることはなかった。
