精神崩壊

 ――中学二年生に進学した。
 淡い色が舞う桜並木に囲まれた藍之宮中学校は、入学式の日に見た景色と何一つ変わっていないはずだった。
 それなのに、ボクの目には、世界が少しだけ違って見えた。
 校門をくぐると、春の陽光が刺すように眩しい。
 去年までは誇らしく思えた「藍色の校章」も、今は自分を縛り付ける刻印のように重く感じられた。けれど、その重みさえ、ボクにとっては先生と繋がっている証拠のように思えて、少しだけ背筋が震えた。
 廊下を歩けば、どこからか先生の規則正しい足音が聞こえてくるような気がして、無意識に心拍が跳ねる。ボクの視線は、無意識にあの一年を過ごした薄暗い準備室の方向を探してしまう。あそこだけが、先生の支配だけが、ボクの唯一の正解だったから。
 舞い散る桜の花びらが、机の上に落ちた。
 それは春の祝福ではなく、剥がれ落ちた皮膚の残骸のように、ボクの目にはひどく無機質に映っていた。けれど、その無機質さが心地よかった。先生に塗り替えられ、ボクという人間が数式のようにシンプルになっていく過程に、ボクは陶酔していたんだ。
 ――それは、二年生になって初めての三者面談が終わった後のことだった。
 母が先に帰宅し、ボクが準備室に呼び出された時、先生はデスクの引き出しから小さな箱を取り出した。
『これを使え』
 差し出されたのは、最新のスマートフォンだった。ボクが持っている親の管理付きの端末ではない、見慣れない機種。
「……これ、なあに? 先生」
『連絡用だ。校外での学習指導には、即時性が求められる。……だが、学校の連絡網を使うわけにはいかないだろう? 先生と維月だけの、特別なパイプだ』
 先生の眼鏡が、準備室の薄暗い光を反射して白く光る。
 中学生が教師と私的に連絡を取り合うことの危うさを、ボクが知らないはずはなかった。けれど、その時のボクにとって、先生から手渡されたその機械は、世界でボクだけが許された「秘密の共有」であり、選ばれた者だけが持てる「特権」の証に見えたんだ。
『設定はすべて先生が済ませてある。……いいな、これは先生と維月だけの秘密だ。誰にも見せるんじゃないぞ』
「先生とボクだけの秘密……嬉しい」
 ボクは、その冷たい銀色の筐体を指先でなぞった。
 それがボクの首にかけられた、目に見えない新しい鎖だとも知らずに。ボクはただ、先生と二十四時間繋がれるという喜びに、指先を震わせていた。
 それからというもの、休日や放課後の「校外学習」という名目の外出が増えた。
 ボクがスマホを持つのは、先生と二人で出かける時だけ。駅の改札や、静かなカフェの片隅。ポケットの中でスマホが震えるたびに、ボクは周囲を気にして画面を隠す。その背徳感が、ボクをさらに熱くさせた。
『今、駅に着いた。西口の時計台の前で待っている』
『維月、あまりキョロキョロするな。不自然だ』
 画面に並ぶ文字列は、どれも簡潔で、けれど支配的だった。
 プライベートな時間まで先生の「数式」の中に組み込まれていく感覚。
 最初は、それが二人だけの世界を構築していく、甘美な作業に思えていた。
 カフェの向かい側に座る先生が、ボクの持つスマホを指差して薄く笑う。
『便利だろう? これで、先生はいつでも君を導ける』
 その言葉が、熱を持って耳の奥に溶ける。先生と繋がっている安心感。
「うん!いつどんな時でも先生と話せるんだー」
 ボクの人生という数式は、先生という絶対的な解によって美しく整えられていくのだと信じて疑わなかった。
 ボクの世界は、あの日からずっと準備室の「黒」に浸されていた。