精神崩壊

 一歩、先生が踏み出す。
 次の瞬間、ぼくの世界は両腕で乱暴に包み込まれた。
 きつく、骨が軋むほどの圧。加減を間違えたわけじゃない。それが、先生なりの、不器用で必死な「誠実」の形だった。
 白シャツから漂う洗剤の匂いと、微かなコーヒーの残り香。
 腕の中はあたたかくて、息が詰まるほどに狭い。
 その狭さこそが、ぼくが手に入れたかった、世界で唯一の居場所だった。
 白シャツから漂う、清潔な洗剤の匂いと、微かなコーヒーの残り香。先生の鼓動が、ぼくの背中に直接響いてくる。
「……先生、離さないでね」
『……ああ』
 先生の低い声が、ぼくの髪を揺らした。
その時、ぼくの首筋に触れた先生の指先が、わずかに震えていることに気づく。
 先生に抱きしめられながら、ぼくはぼんやりと考えていた。
 ――明日のこと。将来のこと。受験のこと。
 ……そんなの、もうどうでもいい。

 先生の腕に閉じ込められたこの瞬間、ぼくの未来にあったはずの無数の選択肢は、音を立てて崩れ去った。
ぼくは、自らの手でそれらをなぎ倒し、先生という唯一の「道」を選んだんだ。
 
 ぼくたちの晩夏が、美しく、残酷に狂い始めた。