――そして、その日は来た。
廊下の掲示板の前に、黒山の人だかりができている。
「うわ、すげー! 一位またアイツかよ」
「十位以内のメンツ、あんま変わんねーな……ん? 誰だこれ」
騒めきを掻き分け、ぼくは掲示板の最上段へと視線を走らせた。
心臓が耳元でうるさく脈打つ。
指先が震え、視界が滲む。
あった。
【第8位 一年四組 辻田 維月】
その文字を見た瞬間、肺から酸素が消えた。
八位。
赤点常習犯だったぼくが、たった数週間で、この学校の「頂」の一角に食い込んだのだ。
周囲の驚愕の視線なんてどうでもいい。
ぼくは弾かれたように走り出した。
向かう先は、あの埃っぽくて、暗くて、けれど世界で一番美しい場所。
準備室のドアを、ぼくは乱暴に開け放った。
「先生……! 先生、ぼく……!」
午後の光の中、先生は椅子を回してぼくを見た。
その手には、あの、きらびやかで流れるような藍い光を放つガラスペンが握られていた。
――けれど、先生は驚いた顔一つしなかった。
ガラスペンをことんとデスクに置き、ゆっくりと立ち上がる。
『八位か。正直、七位まで届くと思っていたが……まあ、上出来だ』
惜しい、とは言わなかった。『届くと思っていた』という言葉が、先生の中のぼくへの期待値がどれほど跳ね上がっていたかを物語っていた。
ドアの前に立ち尽くすぼくを見下ろし、先生が一歩近づく。冷たい指先が、ぼくの前髪を静かに払った。
『よく頑張りました』
その声は、いつもの冷徹な教師のものではなかった。低く、静かで、ほんの少しだけ掠れている。
「ごめんね……期待に、応えられなくて」
二人きりの準備室に、濃密な沈黙が流れる。
前髪を払った指が、そのままぼくの耳の後ろへと滑り落ちた。触れるか触れないかの、曖昧な圧。
『謝る必要はない。八位でも十分、見事な「証明」だ』
「先生……約束の、ご褒美……ほしいな」
ぼくは縋るように、先生の顔を覗き込んだ。
「ご褒美」という単語に、先生の目の色がすっと変わる。穏やかな教師の皮の下から、獲物を追い詰める冷酷な知性が顔を出す。
先生はデスクに寄りかかり、腕を組んだ。
『ほしい、か。随分とかわいい言い方をする。……けれどな』
先生は人差し指を立てて、左右に振った。
『七位に届かなかったのは事実だ。だから、少しだけ意地悪をしたい気分なんだよ』
目を細めて笑うその顔は、飴をちらつかせて寸前で引く、いつもの手口だった。
「え……? で、でも、約束したじゃん」
期待していた何かが消えかかり、視界が熱く潤む。
けれど、先生は喉の奥でククッ、と笑った。
『約束は守る。ご褒美はあげるよ』
デスクの上のガラスペンが、西日に反射して鋭く光る。先生はその傍らにあったコンビニの袋から、カサリと音を立てて何かを取り出した。
『これだ。八位のご褒美』
差し出されたのは、コンビニのワッフルコーンだった。
『七位だったら、もっといいものを用意していたんだがな。惜しいことをしたな、維月』
暗に、次はさらに上を獲れと言っているのだ。その「もっといいもの」が何なのかは決して明かさない。先生は、ぼくを飢えさせ、走らせ続ける方法を熟知していた。
「……こんなの、望んでない」
震える声が、埃っぽい床に力なく落ちた。
この軽いアイス一つをもらうために、ぼくは死ぬ気で勉強してきたのか。馬鹿馬鹿しさと、それ以上に、先生に完全に手玉に取られているという事実が、ぼくの胸を抉った。
ワッフルコーンを差し出した先生の手が、空中で止まった。
震える声と、床に落ちたアイスが溶けていくような静寂。先生から笑顔が消える。コンビニの袋ごと、ワッフルを無造作に机へ戻した。
『……何が、欲しいんだ』
試すような色はもう、どこにもなかった。
「……もう、いいよ」
ぼくは失望に背を向け、逃げるように準備室から飛び出そうとした。
けれど、ドアノブに指が触れるより先に、背中から熱が回った。先生は後ろからぼくを閉じ込めるように、その腕で捕まえた。
『待ってくれ』
耳元で囁かれた声が、低く震える。革靴が床をきゅっと鳴らした。身長差のせいで、ぼくの頭はちょうど先生の顎の下に収まってしまう。
『……悪かった』
ぽつりと落とされた一言は、あの傲慢な教師から出たとは思えないほど、幼く、素直だった。
ぼくは掴まれた腕を、強引に振り払う。
「ごめんだなんて思ってないくせに」
視界が熱く滲む。
「『望むものは何でもあげるから』って言われて、死ぬ気で頑張ったのに……こんなのあんまりだよ……っ」
振り払われた腕を、先生は追わなかった。ただ、その場に立ち尽くしている。
不意に、先生が眼鏡を外した。
焦点の合わなくなる世界を自ら選ぶように。
『反省している。本当に、申し訳ない』
裸眼の黒い瞳が、ぼんやりとぼくのいた方向を泳いでいる。
「……ぼくはね。ものが、欲しいんじゃないんだよ。……抱きしめて、ほしいの」
準備室に、深い夕陽が差し込んでいた。きらきらと舞う埃の中で、先生は眼鏡を握りしめたまま、何も見えていないはずの瞳でまっすぐにぼくを探した。
廊下の掲示板の前に、黒山の人だかりができている。
「うわ、すげー! 一位またアイツかよ」
「十位以内のメンツ、あんま変わんねーな……ん? 誰だこれ」
騒めきを掻き分け、ぼくは掲示板の最上段へと視線を走らせた。
心臓が耳元でうるさく脈打つ。
指先が震え、視界が滲む。
あった。
【第8位 一年四組 辻田 維月】
その文字を見た瞬間、肺から酸素が消えた。
八位。
赤点常習犯だったぼくが、たった数週間で、この学校の「頂」の一角に食い込んだのだ。
周囲の驚愕の視線なんてどうでもいい。
ぼくは弾かれたように走り出した。
向かう先は、あの埃っぽくて、暗くて、けれど世界で一番美しい場所。
準備室のドアを、ぼくは乱暴に開け放った。
「先生……! 先生、ぼく……!」
午後の光の中、先生は椅子を回してぼくを見た。
その手には、あの、きらびやかで流れるような藍い光を放つガラスペンが握られていた。
――けれど、先生は驚いた顔一つしなかった。
ガラスペンをことんとデスクに置き、ゆっくりと立ち上がる。
『八位か。正直、七位まで届くと思っていたが……まあ、上出来だ』
惜しい、とは言わなかった。『届くと思っていた』という言葉が、先生の中のぼくへの期待値がどれほど跳ね上がっていたかを物語っていた。
ドアの前に立ち尽くすぼくを見下ろし、先生が一歩近づく。冷たい指先が、ぼくの前髪を静かに払った。
『よく頑張りました』
その声は、いつもの冷徹な教師のものではなかった。低く、静かで、ほんの少しだけ掠れている。
「ごめんね……期待に、応えられなくて」
二人きりの準備室に、濃密な沈黙が流れる。
前髪を払った指が、そのままぼくの耳の後ろへと滑り落ちた。触れるか触れないかの、曖昧な圧。
『謝る必要はない。八位でも十分、見事な「証明」だ』
「先生……約束の、ご褒美……ほしいな」
ぼくは縋るように、先生の顔を覗き込んだ。
「ご褒美」という単語に、先生の目の色がすっと変わる。穏やかな教師の皮の下から、獲物を追い詰める冷酷な知性が顔を出す。
先生はデスクに寄りかかり、腕を組んだ。
『ほしい、か。随分とかわいい言い方をする。……けれどな』
先生は人差し指を立てて、左右に振った。
『七位に届かなかったのは事実だ。だから、少しだけ意地悪をしたい気分なんだよ』
目を細めて笑うその顔は、飴をちらつかせて寸前で引く、いつもの手口だった。
「え……? で、でも、約束したじゃん」
期待していた何かが消えかかり、視界が熱く潤む。
けれど、先生は喉の奥でククッ、と笑った。
『約束は守る。ご褒美はあげるよ』
デスクの上のガラスペンが、西日に反射して鋭く光る。先生はその傍らにあったコンビニの袋から、カサリと音を立てて何かを取り出した。
『これだ。八位のご褒美』
差し出されたのは、コンビニのワッフルコーンだった。
『七位だったら、もっといいものを用意していたんだがな。惜しいことをしたな、維月』
暗に、次はさらに上を獲れと言っているのだ。その「もっといいもの」が何なのかは決して明かさない。先生は、ぼくを飢えさせ、走らせ続ける方法を熟知していた。
「……こんなの、望んでない」
震える声が、埃っぽい床に力なく落ちた。
この軽いアイス一つをもらうために、ぼくは死ぬ気で勉強してきたのか。馬鹿馬鹿しさと、それ以上に、先生に完全に手玉に取られているという事実が、ぼくの胸を抉った。
ワッフルコーンを差し出した先生の手が、空中で止まった。
震える声と、床に落ちたアイスが溶けていくような静寂。先生から笑顔が消える。コンビニの袋ごと、ワッフルを無造作に机へ戻した。
『……何が、欲しいんだ』
試すような色はもう、どこにもなかった。
「……もう、いいよ」
ぼくは失望に背を向け、逃げるように準備室から飛び出そうとした。
けれど、ドアノブに指が触れるより先に、背中から熱が回った。先生は後ろからぼくを閉じ込めるように、その腕で捕まえた。
『待ってくれ』
耳元で囁かれた声が、低く震える。革靴が床をきゅっと鳴らした。身長差のせいで、ぼくの頭はちょうど先生の顎の下に収まってしまう。
『……悪かった』
ぽつりと落とされた一言は、あの傲慢な教師から出たとは思えないほど、幼く、素直だった。
ぼくは掴まれた腕を、強引に振り払う。
「ごめんだなんて思ってないくせに」
視界が熱く滲む。
「『望むものは何でもあげるから』って言われて、死ぬ気で頑張ったのに……こんなのあんまりだよ……っ」
振り払われた腕を、先生は追わなかった。ただ、その場に立ち尽くしている。
不意に、先生が眼鏡を外した。
焦点の合わなくなる世界を自ら選ぶように。
『反省している。本当に、申し訳ない』
裸眼の黒い瞳が、ぼんやりとぼくのいた方向を泳いでいる。
「……ぼくはね。ものが、欲しいんじゃないんだよ。……抱きしめて、ほしいの」
準備室に、深い夕陽が差し込んでいた。きらきらと舞う埃の中で、先生は眼鏡を握りしめたまま、何も見えていないはずの瞳でまっすぐにぼくを探した。
