精神崩壊

 掲示されたクラス表を見上げる。
 一クラスは約四十名。それが五組まで。
 ぼくは、そっと目を細めた。視力が悪いわけじゃない。均等に並んだゴシック体の縦文字。知らない誰かの名前が並ぶそれを見ていると、他人の人生の目録を無理やり読まされているような気がした。
 胸の奥から、言いようのない不快感がせり上がる。
 ぼくは、整いすぎたものが嫌いだ。
「……あ、あった」
 ようやく見つけた。
 四組の表に記された『辻田(つしだ) 維月(いつき)』の文字。
 出席番号は二十二番。「た行」のそれは、遅すぎず早すぎもしない、ぼくにとって心地いい数字だった。
『四組二十二番ですね。では案内します』
 先生の涼やかな声が響く。
『保護者の方は体育館へ。あちらの長岡(ながおか)先生が案内いたしますので……』
「あら、ご丁寧にありがとうございます。……清水(しみず)先生、とおっしゃるのね。これから息子を、よろしくお願いします」
 隣で母が、弾んだ声を出す。
 その瞬間、ぼくの肌に粟が立った。
 母の横顔には、家で見せる疲れ切った生活感など微塵もなかった。
 わざとらしく細められた目尻。しなだれかかるような首の角度。家の中で死んでいたはずの『女』が、先生の光を浴びて、醜く這い出してきた。散々ぼくのことを叩いてきたくせに。
 吐き気がした。
 清水先生の完璧な造形が、母の安っぽい色香に汚されていく。
 だが、先生は動じなかった。
 その瞳には、母の姿も、母の放つ色香も、最初から映っていないようだった。鏡のように滑らかな、拒絶。その徹底した無機質さが、今のぼくには救いだった。
(気持ち悪い気持ち悪い。あんな顔を見せないで)
 ぼくは逃げるように母から距離を置いた。
 先生の背中だけを追いかける。
 ぐちゃぐちゃに使い古された「家庭」から切り離された、この潔癖な場所。
 ここだけが、ぼくの居場所になるべきなんだ。
 歩きながら、先生の首から提げられた名札に目を走らせる。
【市立藍之宮中学校 副学年主任 清水(しみず) 悠一(ゆういち)。担当 数学/一年四組 担任】

(しみず、ゆういち……)
心の中でその名をなぞった。担当、数学。ぼくは、数学が好きだ。
感情や環境で答えが変わる国語や社会と違って、数字は決してぼくを裏切らない。
導き出された解は、いつだって唯一無二で、余計なものが一切ない美しさ。
あの先生の、皺ひとつないシャツの白さは、解き終えたばかりの数式に似ていた。
 先生が不意に振り返る。光のない黒い瞳が、ぼくを見下ろした。
 ぼくの心臓が、跳ねるように脈打つ。
「……っ」
 あまりのうるささに耐えきれず、ぼくはすぐに目を逸らした。