――いよいよテスト当日の朝。
校門をくぐるぼくの視界は、ひどく歪んでいた。
数日間の徹夜で、目の奥には熱い鉛が詰まったような鈍痛がある。鏡を見るまでもなく、自分の目が血走り、顔色が死人のように青白いことはわかっていた。
すれ違う生徒たちの笑い声が、耳障りなノイズとして鼓膜を刺す。
(うっさいな……。君たちとは、見ている世界が違うんだから)
ぼくの頭脳は、今や先生から与えられた公式と解法だけで構成された精密機械だった。
重い足取りで昇降口へ向かう廊下。その向こうから、聞き慣れた規則正しい足音が響いてきた。
――コン、コン、と。
心臓が跳ね、全身の血が指先まで一気に駆け巡る。
白シャツに黒スーツ。いつも通りの冷徹な装いで、先生が歩いてくる。
ぼくは立ち止まり、吸い寄せられるように先生を見つめた。
先生の視線が、ぼくを捉える。
ぼくの充血した目、ひび割れた唇、震える指先。先生は、ぼくがどれほど無様に、そして忠実に「地獄」を歩いてきたかを一瞬で理解したはずだ。
すれ違いざま。
先生は足を止めず、ただ、わずかにぼくの方へ顔を向けた。
『……顔が酷いぞ、維月』
囁くような、けれど鋭い一言。
叱責ではない。それは、戦場へ向かう猟犬の喉元を撫でるような、冷酷で甘い確認だった。
先生の眼鏡が朝日に反射し、その奥にある瞳が、満足げに細められたのをぼくは見逃さなかった。
「……行ってくるね、先生」
ぼくの声は掠れていたけれど、確かな熱を帯びていた。
先生は答えず、そのまま背中を向けて歩き去る。
廊下に残った先生の気配だけを道標に、ぼくは教室へと足を踏み入れた。
机に置かれた問題用紙が、獲物を待つ牙のように白く光っている。
試験開始のチャイムが、遠くの別の世界で鳴ったような気がした。それと同時に開始の合図が教室中に轟いた。みんな一斉に鉛筆を手に取る音が響く。
問題用紙を裏返した瞬間、ぼくの脳内は凍りついたように澄み渡る。
(あ、知ってる。これ、先生とやったやつだ)
周囲の鉛筆が走る音、誰かの鼻をすする音、時計の針の音。それらすべての雑音が、水中に潜った時のように遠のいていく。
ぼくの手首から先は、もう自分の意志で動いてはいなかった。先生に叩き込まれた数式が、ペン先を通じて勝手に紙面を埋めていく。
一問解くたびに、脳の奥で先生が頷く気配がした。
数字が、記号が、まるで生き物のように正しい場所へと収束していく。解答欄を埋めるたびに、ぼくの「価値」が一つずつ証明されていく悦び。
終了の合図が鳴った時、ぼくの指先はペンの握りすぎで白く硬直していた。けれど、達成感なんてものはなかった。ただ、神への供物を捧げ終えた後のような、静かな脱力感だけが残っていた。
テストが終わり、結果が出るまでの数日間は、まるで現実味のない夢の中を歩いているようだった。
部活動に熱を上げる同級生も、テストの難しさを嘆き合うグループも、ぼくにとっては透明な存在でしかなかった。準備室へ行っても、先生はいつも通り淡々と仕事をこなし、ぼくもあえて結果の話はしなかった。
ぼくたちが共有しているのは、言葉ではなく、あの「約束」という名の重力だけ。
夜、自分の部屋でデスクに向かっても、もう解くべき問題はない。ただ、静まり返った部屋で、自分の心臓の音を聴きながら、廊下で見た先生の細められた瞳を思い返していた。
十位に入っていなければ、ぼくはこの世界から消えてしまう。
その確信だけが、ぼくをこの世に繋ぎ止めていた。
校門をくぐるぼくの視界は、ひどく歪んでいた。
数日間の徹夜で、目の奥には熱い鉛が詰まったような鈍痛がある。鏡を見るまでもなく、自分の目が血走り、顔色が死人のように青白いことはわかっていた。
すれ違う生徒たちの笑い声が、耳障りなノイズとして鼓膜を刺す。
(うっさいな……。君たちとは、見ている世界が違うんだから)
ぼくの頭脳は、今や先生から与えられた公式と解法だけで構成された精密機械だった。
重い足取りで昇降口へ向かう廊下。その向こうから、聞き慣れた規則正しい足音が響いてきた。
――コン、コン、と。
心臓が跳ね、全身の血が指先まで一気に駆け巡る。
白シャツに黒スーツ。いつも通りの冷徹な装いで、先生が歩いてくる。
ぼくは立ち止まり、吸い寄せられるように先生を見つめた。
先生の視線が、ぼくを捉える。
ぼくの充血した目、ひび割れた唇、震える指先。先生は、ぼくがどれほど無様に、そして忠実に「地獄」を歩いてきたかを一瞬で理解したはずだ。
すれ違いざま。
先生は足を止めず、ただ、わずかにぼくの方へ顔を向けた。
『……顔が酷いぞ、維月』
囁くような、けれど鋭い一言。
叱責ではない。それは、戦場へ向かう猟犬の喉元を撫でるような、冷酷で甘い確認だった。
先生の眼鏡が朝日に反射し、その奥にある瞳が、満足げに細められたのをぼくは見逃さなかった。
「……行ってくるね、先生」
ぼくの声は掠れていたけれど、確かな熱を帯びていた。
先生は答えず、そのまま背中を向けて歩き去る。
廊下に残った先生の気配だけを道標に、ぼくは教室へと足を踏み入れた。
机に置かれた問題用紙が、獲物を待つ牙のように白く光っている。
試験開始のチャイムが、遠くの別の世界で鳴ったような気がした。それと同時に開始の合図が教室中に轟いた。みんな一斉に鉛筆を手に取る音が響く。
問題用紙を裏返した瞬間、ぼくの脳内は凍りついたように澄み渡る。
(あ、知ってる。これ、先生とやったやつだ)
周囲の鉛筆が走る音、誰かの鼻をすする音、時計の針の音。それらすべての雑音が、水中に潜った時のように遠のいていく。
ぼくの手首から先は、もう自分の意志で動いてはいなかった。先生に叩き込まれた数式が、ペン先を通じて勝手に紙面を埋めていく。
一問解くたびに、脳の奥で先生が頷く気配がした。
数字が、記号が、まるで生き物のように正しい場所へと収束していく。解答欄を埋めるたびに、ぼくの「価値」が一つずつ証明されていく悦び。
終了の合図が鳴った時、ぼくの指先はペンの握りすぎで白く硬直していた。けれど、達成感なんてものはなかった。ただ、神への供物を捧げ終えた後のような、静かな脱力感だけが残っていた。
テストが終わり、結果が出るまでの数日間は、まるで現実味のない夢の中を歩いているようだった。
部活動に熱を上げる同級生も、テストの難しさを嘆き合うグループも、ぼくにとっては透明な存在でしかなかった。準備室へ行っても、先生はいつも通り淡々と仕事をこなし、ぼくもあえて結果の話はしなかった。
ぼくたちが共有しているのは、言葉ではなく、あの「約束」という名の重力だけ。
夜、自分の部屋でデスクに向かっても、もう解くべき問題はない。ただ、静まり返った部屋で、自分の心臓の音を聴きながら、廊下で見た先生の細められた瞳を思い返していた。
十位に入っていなければ、ぼくはこの世界から消えてしまう。
その確信だけが、ぼくをこの世に繋ぎ止めていた。
