精神崩壊

 それから三日後。放課後の準備室。
 ホワイトボードにびっしりと数式を書き連ね、先生が振り返る。チョークの粉が、先生の白いシャツの肩に淡く積もっていた。
『……では、ここ。文字式を求めなさい』
 指導は常にマンツーマンだ。
「……わかんない。この括弧、どうやって消すんだっけ」
『分配法則を利用するんだ。基礎のプリントでは解けていただろう?』
「でも、これ応用じゃん。わかるわけないよ」
 窓の外では部活動の掛け声が遠く響いている。蝉の声はすでに弱々しく、季節の終わりを告げていた。――晩夏。西日が室内をオレンジ色に焼き、ぼくの手元のプリントに長い影を落とす。
 先生がぼくの手元を覗き込む。首筋に吐息がかかるほどの距離。
『そこ、符号が逆だ。マイナスが一つ余計だな』
 伸びてきた指先が、ぼくの間違えた箇所をペン先で鋭く示した。
(だめだ。十位以内なんて、やっぱり無理な気がする……)
 プレッシャーに、ぼくは思わず俯いた。
 ペンが紙の上を走る音だけが、静寂を刻んでいく。先生は黙ったまま、ぼくの回答を無機質に採点し続けていた。
 やがて、ぱさりとプリントが裏返される。
『顔を上げなさい』
 短い一言。それは逃げ場を許さない命令だった。
 先生は向かい側に座り直し、頬杖をつく。
『なあ、維月』
「ん?」
『十位以内という条件、驚いただろう』
 すべて、見透かされていた。
「……そうだね。ぼくには難しいかもしれない」
『当たり前だ。無茶を言っている自覚はある。――だがな』
 先生が、自分の赤ペンを見せた。ところどころインクが掠れ、使い込まれた痕跡が刻まれている。
『さっきの問題。一週間前の君だったら、手も足も出なかったはずだ。……ちゃんと成長している』
夕陽がレンズを透かし、先生の表情を一瞬だけ白く塗りつぶした。先生の眼鏡が光を反射して、ぼくを見つめる瞳が見えない。
 褒められた喜びよりも、この人の期待から一生逃れられないという甘い絶望が、ぼくの胸を締め付けた。
 オレンジ色の光が消えていく。ぼくたちの「特別な夏」が、終わろうとしていた。
 
 その日から、ぼくの世界は数式と先生の残像だけに塗りつぶされた。
 朝、目が覚めると同時に脳内に公式が浮かび、通学路のタイルを数式の変数に見立てて歩く。一問間違えるたびに、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
(間違えたら、先生に『期待外れだ』と思われる。捨てられる。また、あの空っぽな日々に逆戻りだ――)
 その恐怖だけが、ぼくを机にかじりつかせる唯一の動力源だった。
 テストを数日後に控えた放課後。ぼくはフラつく足取りで準備室のドアを叩いた。
「先生……これ、昨日解いたぶんです」
 差し出したノートの端は、握りしめた汗で波打っている。
 先生はそれを受け取ると、いつものように無機質な視線でページを捲った。使い込まれた赤ペンが、ぼくの努力を冷徹に裁いていく。
『……詰めが甘いな。この大問四、計算ミスで全滅だ』
 心臓が跳ねた。視界が眩む。
「ごめんなさい、次は、次はもっと――」
『だが』
 先生の声がぼくを繋ぎ止めた。先生はあのガラスペンを手に取ると、ノートの余白に、藍白いインクで小さな数字を書き込んだ。
『九十二点。前回の実力テストからは、三十二点の飛躍だ』
 先生の指先が、ぼくのノートの縁をなぞる。
『……悪くない。このまま、先生を驚かせてみろ』
 「先生を驚かせろ」。その言葉は、どんな甘い囁きよりも深く、ぼくの首に鎖を巻き付けた。
 
「……もっと。もっとやるよ、先生。十位以内なんて、通過点にするから」
 ぼくの声は、もう自分のものではないように聞こえた。
 窓の外、晩夏の夕闇が準備室を飲み込んでいく。ぼくは先生の視線という名の檻の中で、悦びに震えながら、再びペンを握り直した。