精神崩壊

「……先生は、ぼくと似てるね」
 ぼくは、ガラスペンを握る先生の左手首をそっと掴んだ。先生の視線が一瞬だけ、その「拘束」に落ちる。――振り払わなかった。指から滑り落ちたペンが、デスクの端で乾いた音を立てて止まった。
『似てないよ』
 低く、けれど柔らかな拒絶。
『維月は先生より、ずっといい子だ。学校に来ている時点でな』
 手首を掴むぼくの手の上に、先生の右手が重なった。冷たい掌の温度が、肌を通じてぼくの血に混ざる。
『……さて、維月は受験生だ。体育祭の代わりに、この十問を解きなさい』
 プリントがデスクを滑り、ぼくの目の前に差し出される。
「ねえ、先生。……ぼく、先生の数学も好きだけど。今は、先生の知らないこと、知りたいの」
 重ねられた手の力が、わずかに強まった。
 狭くて埃っぽい準備室。蛍光灯がジジ、と小さく鳴る。――この瞬間、時間の流れは確かにぼくたちだけの規則で動き始めた。
 先生が、ふっと息を吐く。
『人生、か。中学生の質問にしては重すぎるな』
 けれど、突き放しはしなかった。空っぽの頭蓋骨だとぼくを罵った父とは、決定的に違う。先生は眼鏡のブリッジを指先でなぞり、思考を巡らせ――ぽつりと、話し始めた。
『先生には、母親がいないんだ』
 平坦な、世間話でもするような温度。
『顔も知らない。物心つく前に死んだからな。ずっと、父親と二人だった』
 プリントの角を指先で弾く。先生の視線はデスクの一点に固定されていた。
『中学の時、すべてがどうでもよくなった。……だから、学校を捨てたんだ』
「ぼくも、片親だよ」
 先生の指が止まった。
 共通点が、また一つ転がり出る。――母親の不在。片親。『似てないよ』と言ったのは先生自身だったのに。
 静かな瞳が、ぼくを射抜く。
『父親は?』
「逃げたの」
 迷いのない、はっきりとした一言。
 その言葉の重みに、準備室の空気が凝固する。先生は「逃げた」という響きを、喉の奥でゆっくりと噛み締めているようだった。
 聞き返すことはしなかった。しばらくの沈黙のあと、先生はぼくに握られたままの左手首をくるりと返し――掌を上に向けた。
『……そうか』
 それだけだった。「大変だったな」も「辛かったな」も言わない。
 安っぽい同情を口にしないその冷徹さが、ぼくにはどんな言葉よりも心地よい優しさだった。
 ぼくはプリントを引き寄せ、ペンを握った。
 淀みなく問題を解き進める。数式が次々と正解へ収束していく音だけが、室内に響いた。先生はぼくの手元を覗き込み、わずかに目を見開く。
『――全問正解だ。途中式も、完璧に揃っている』
 先生は椅子の背もたれに体重を預け、腕を組んだ。眼鏡の奥、湿り気を帯びた視線がぼくを射抜く。
『手を抜いていたんだな』
 声に怒りはない。むしろ、底の知れない笑みが口元に滲んでいた。
「そうした方が、先生と話す機会が増えるかなーって」
 ぼくはニコニコしながら、宙に浮いた足をパタパタと揺らす。
 先生は一度だけ、瞬きをした。
 一拍の静寂。
 それから先生は額に手を当て、天を仰いだ。――笑っていた。喉の奥から漏れるような、小刻みな肩の震え。
『愚かだな、維月は』
 その声は、重い沈黙を切り裂くほどに鋭く、けれど今のぼくにはどんな甘言よりも心地よく響いた。

「先生のためなら何でもするよ。ね、先生」
 コテンと首を傾け、微笑む。
 けれど、先生の笑みは不自然なほど急激に引いていった。眼鏡の奥、黒い瞳がすうっと細まる。
 空気の密度が変わった。その一言が、先生の中の「何か」に火を点けたのは明白だった。
『……危ない発言だな。取り消すなら今のうちだ。後戻りはできなくなるぞ』
 冗談の気配を一切排除した、低い声。
「取り消さないよ。だってぼく、本気だもん」
 ぼくはクスッと笑った。
 先生が立ち上がる。デスクを回り込み、ぼくの目の前に立った。圧倒的な身長差が、そのまま逃げ場のない威圧となってのしかかる。
 先生はぼくの前にしゃがみ込み、視線を合わせた。右目の下のホクロが、残酷なほど近くに見える。
『本気、か。いい言葉を使うじゃないか』
 伸びてきた右手が、ペンを握るぼくの手ごとデスクに縫い止めた。
『……ならば、次の期末テストで学年十位以内。できるか?』
 無茶だ。今のぼくにとって、それは砂漠で針を探すような話だった。先生はそれを承知の上で、ぼくを崖っぷちへ追い込もうとしている。
『できたら、ご褒美をあげる』
 飴と鞭。先生は本気でぼくを「作り替える」つもりだった。
「十位以内取れたら、何してくれるの?」
 挑発するように、悪戯っぽく笑ってみせる。
 先生が顔を近づけた。鼻先が掠める距離。
『それは、取ってからのお楽しみだ』
 囁くような振動が、ぼくの耳から全身へと伝わった。混ざり合った二人の吐息が、逃げられない「契約」の印のように、熱く、重く、ぼくを縛りつけた。
「ふーん……わかった。絶対、十位以内に入ってみせる」
 ぼくは意気込んでそう言った。
 先生はにっと口角を上げると、何事もなかったかのようにデスクのガラスペンを拾い上げた。
『そういえば、維月の進路をまともに聞いていなかったな。将来は何をしたいんだ?』
 埃っぽい準備室に、微かなチョークの匂いが漂う。
「うーんとね、今まで考えたことなかった。……先生はどう思う?」
 ガラスペンを握る先生の、冷たく白い指先をじっと見つめる。
 視線に気づいた先生が、赤ペンでぼくのおでこをちょんと突いた。
『人の手ばかり見ていないで集中しろ』
 先生は眼鏡を外し、レンズを拭き始めた。裸眼では焦点が合わないのか、少しだけ目を細める。
『どう思うと言われてもな。……まずは維月の成績で入れる場所を、泥臭く探すところからだ』
 容赦のない言葉。けれど、眼鏡をかけ直した先生の瞳には、確かな熱が宿っていた。
『まあ、数学だけなら見込みはある。さっきの解き方を見る限り、地力は悪くない』
 それは先生なりの、最大限の賛辞だった。ぼくがわざと手を抜いていたことを見抜いた上での、冷徹な評価。
『とりあえず、明日からも放課後は準備室に来い。補習だ』
 
「うん! 先生とずーっと一緒にいられるなら――」

 ――こうして、赤点常習犯であるぼくの、地獄のような猛勉強生活が幕を開けた。
 先生は返事の代わりに、新しい問題集をぼくの前に叩きつけた。
 一方、他の先生は未だにぼくを探し続けているのだろうか。
「十位以内」という高い壁。けれど、その先に用意された「ご褒美」を想像するだけで、心臓の奥が熱く疼く。
ぼくたちの晩夏が、音を立てて狂い始めた。