精神崩壊

 ――窓の外から、応援団の太鼓が地響きのように伝わってくる。
 一階を覗けば、赤、青、黄の隊列が、無意味に整然と並んでいた。ぼくはすぐに目を逸らす。外の熱気を遮断するように、カーテンを思いきり閉め切った。
「こんなのやって……馬鹿じゃないの」
 ぼくの独り言とため息が、殺風景な準備室に溜まっていく。
 その時、廊下から足音が響いた。
 ――コン、コン。
 間隔は正確に等しく、几帳面な主の内面を写したような響き。
「……入っていいよ」
 見覚えのある白い手が、ドアをスライドさせた。
 逆光が先生の表情を塗りつぶし、床には巨大な影のシルエットが伸びる。白シャツ、黒スーツ、眼鏡。いつもと変わらない、完成された出で立ちで清水先生は入ってきた。手にはプリントの束とガラスペン。
『ずっと探してたんだぞ』
 言葉とは裏腹に、その呼吸は一切乱れていない。
 先生の視線は、瞬時に室内のすべてをスキャンした。カーテンの隙間、散らかった机たち、壁の落書き。情報の断片を一つずつ拾い上げ、けれど、何も指摘しない。デスクにどさっとプリントを置く。横には準備室の鍵が置かれていた。

『体育祭の練習から飛び出したらしいな。他の教師たちが騒いでいたぞ』
 先生は淡々と椅子を引き、腰を下ろした。
「ぼく、ああいうの嫌い」
『ああいうの、か』
 繰り返された言葉には、ぼくを突き放すような冷ややかな響きがあった。先生は手元のプリントの山をとんとんと揃え、視線を落としたまま続ける。
『まあ、先生も無意味なことは嫌いだ。逃げ出す気持ちは否定しない』
「先生だって嫌いでしょ? 先生は……ぼくの味方だよね」
 揃えようとした指先が一瞬止まり、先生が微笑んだ。
『味方ではないよ』
 あまりに呆気ない拒絶に、準備室の空気がぴりりと凍りつく。
「え……?」
 先生は椅子に座ったまま、ぼくを覗き込むように距離を詰めた。光を反射しない眼鏡の奥、黒い瞳がぼくを正確に捉える。
『味方面をすれば、維月は甘えるだろう?』
 口角だけが、数式で導き出されたような角度で上がる。
『嫌いなものから逃げたまま、大人になってほしくないんだ』
 トーンの落ちた声が、鼓膜に重くのしかかる。けれど、ぼくはその言葉の矛盾を見逃さなかった。
「……でも、先生が言えることじゃないじゃん」
 先生の全身が、彫刻のように凝固した。
 指先がゆっくりと眼鏡を押し上げ、静寂という名の空白を稼ぐ。
『そうだな。中学時代の先生は、体育祭どころか学校ごと拒絶していたからな……正直に言えば、今も嫌いなものから逃げ続けている』
 淡々と並べられる告白。そこには後悔も自嘲もない。ただ冷厳な事実として、自分の欠陥を陳列しているだけだった。