――「証明」を終えた夏休み明け。
ぼくは準備室のドアを静かに開けた。手には、眩い光を放つガラスペンと、先生の瞳をスポイトで掬ったような闇色のインク。
胸の鼓動が、薄暗い部屋の空気を震わせる。
「先生、約束……果たしてきたよ」
キャスター付きの椅子に腰掛けた先生が、ゆっくりとこちらを向いた。
『……そうか。境界線を越えてみて、どうだった』
「……うん。ぼくの世界だけが、新しくなったみたい」
『やはり、君はやればできる子だ』
先生の言葉が、何よりの報酬だった。ぼくは差し出された掌の上に、数万円の価値がある『一番綺麗なもの』を置く。
『……あれ。ボールペンではないのか?』
先生の眉が微かに動く。期待した反応ではない。
自分の記した「正解」を書き換えられたことへの、数学的な不快感だろうか。
「これが、ぼくの選んだ『一番綺麗なもの』。先生にあげる」
『……なるほど。先生にくれるのか』
先生はガラスペンを光にかざすと、影を帯びた瞳を細めた。
『――いい子だな、維月』
「……先生、撫でて」
強請るように顔を上げると、先生は無造作に手を伸ばした。
髪を撫でる、冷たくて大きな掌。その柔らかな感触に目を細めた瞬間、視界の端で「銀色の光」が跳ねた。
先生の左手。薬指の根元。
そこには、何もなかった。
白く残る、微かな圧迫の痕跡。それを見た瞬間、ぼくの脳は悦びに塗りつぶされる。
(先生がぼくのために、『過去』を削ぎ落としたんだ)
「先生……指、寂しそうだね」
ぼくの声は、自分でも驚くほど震えていた。けれど、先生は逃げなかった。
伸ばされた指先が、ぼくの顎をゆっくりと持ち上げる。視線が混ざり合い、沈黙という名の重力が、ぼくたちの距離をゼロへと収束させていった。
――沈黙という名の重力が、ぼくたちの距離をゼロへと収束させていった。
先生の冷たい唇が、ぼくの額に触れる。ただそれだけのことなのに、ぼくの心臓は命を削るような音を立てていた。
窓の外では下校を急ぐ生徒たちの声が、遠い世界の出来事のように響いている。
先生の大きな掌がぼくの頬を包み込み、ぼくの世界は準備室の四角い空気に閉じ込められた。
歪んだネクタイ、乱れたぼくの前髪。
それは、ぼくたちが「正しい教師と生徒」であることを放棄し、二人だけの歪な数式を書き始めた、何よりの証明だった。
ぼくは準備室のドアを静かに開けた。手には、眩い光を放つガラスペンと、先生の瞳をスポイトで掬ったような闇色のインク。
胸の鼓動が、薄暗い部屋の空気を震わせる。
「先生、約束……果たしてきたよ」
キャスター付きの椅子に腰掛けた先生が、ゆっくりとこちらを向いた。
『……そうか。境界線を越えてみて、どうだった』
「……うん。ぼくの世界だけが、新しくなったみたい」
『やはり、君はやればできる子だ』
先生の言葉が、何よりの報酬だった。ぼくは差し出された掌の上に、数万円の価値がある『一番綺麗なもの』を置く。
『……あれ。ボールペンではないのか?』
先生の眉が微かに動く。期待した反応ではない。
自分の記した「正解」を書き換えられたことへの、数学的な不快感だろうか。
「これが、ぼくの選んだ『一番綺麗なもの』。先生にあげる」
『……なるほど。先生にくれるのか』
先生はガラスペンを光にかざすと、影を帯びた瞳を細めた。
『――いい子だな、維月』
「……先生、撫でて」
強請るように顔を上げると、先生は無造作に手を伸ばした。
髪を撫でる、冷たくて大きな掌。その柔らかな感触に目を細めた瞬間、視界の端で「銀色の光」が跳ねた。
先生の左手。薬指の根元。
そこには、何もなかった。
白く残る、微かな圧迫の痕跡。それを見た瞬間、ぼくの脳は悦びに塗りつぶされる。
(先生がぼくのために、『過去』を削ぎ落としたんだ)
「先生……指、寂しそうだね」
ぼくの声は、自分でも驚くほど震えていた。けれど、先生は逃げなかった。
伸ばされた指先が、ぼくの顎をゆっくりと持ち上げる。視線が混ざり合い、沈黙という名の重力が、ぼくたちの距離をゼロへと収束させていった。
――沈黙という名の重力が、ぼくたちの距離をゼロへと収束させていった。
先生の冷たい唇が、ぼくの額に触れる。ただそれだけのことなのに、ぼくの心臓は命を削るような音を立てていた。
窓の外では下校を急ぐ生徒たちの声が、遠い世界の出来事のように響いている。
先生の大きな掌がぼくの頬を包み込み、ぼくの世界は準備室の四角い空気に閉じ込められた。
歪んだネクタイ、乱れたぼくの前髪。
それは、ぼくたちが「正しい教師と生徒」であることを放棄し、二人だけの歪な数式を書き始めた、何よりの証明だった。
