ぼくは体育館の壁際に、静かに腰を下ろした。
冷たい壁の感触が、火照った背中に心地いい。膝を抱え、自然な動作を装って左の掌を見つめる。
そこには、先生が記した『ボールペン』という歪んだ文字列があった。
さっきの涙の湿り気と浮き出た汗のせいで、黒いインクは無惨に滲み始めている。文字の輪郭が崩れ、肌の細かな溝に沿って、黒い毒のようにぼくの肉体へ侵食していく。
(……汚れてる。先生の文字で、ぼくが汚されていく。)
その事実に、下腹部のあたりが熱くなるような錯覚を覚えた。
周囲の連中が健全に汗を流し、健全なルールの中でボールを奪い合っている間に、ぼくは彼らの知らない「正義」を握りしめている。
「バレなければ、それは維月だけの正義になる」
先生の言葉が、鼓膜の奥で甘く反芻された。
視線を上げると、遠くの教官室の窓に、清水先生らしき影が揺れた気がした。
ぼくは滲んだ掌を、そっと頬に押し当てる。
鉄の匂いに似た、安っぽいインクの香りが、どんな香水よりも甘美に感じられた。
――蝉の声とともに夏休みがやってきた。
ぼくは母からもらった小遣いをポケットで握りしめ、駅前の大きな文房具店へと向かった。
自動ドアが開くと同時に、冷房の乾いた空気がぼくを迎え入れる。
これから行うのは、単なる窃盗ではない。
これは、ぼくと先生を繋ぐ、誰にも邪魔されないための「証明」の儀式なのだ。
什器の高さ、照明の角度、L字型のコーナー。
ぼくの目は、もはや文房具を探すためのものではなかった。
昨日、先生が指し示した「死角」という名の聖域。そこへ向かう足取りは、巡礼を果たす信者のように静かだった。
棚に並ぶ無機質な列。
――けれど、その一線の手前で、指先が止まる。
その隣で、場違いなほどの光を放つ一本のガラスペンに目が留まった。
吸い寄せられるように指先を伸ばす。触れた瞬間、ガラス特有の冷徹な温度が指先に伝わる。
それは、先生の指先に触れた時の感覚に、ひどく似ていた。その中の一つに触れた瞬間、ぼくの中の何かが確かに変わった。
これを“選ぶ”だけでいい。たったそれだけで、ぼくは先生の言葉を証明できる。
乾いた冷房の音の中に、自分の鼓膜を叩くような激しい心拍音だけが響く。
死角を縫うように、防犯カメラの無機質なレンズから視線を外す。数学的に計算された、冷徹な回避。
けれど、いざその一線を越えようとしたとき、指先が微かに震えた。
そのときだった。耳元で、あの低い声が聞こえた気がした。
『――いい子だな、維月』
心臓の音が、いっそう激しく跳ねる。
先生の瞳をスポイトで掬い取ったような、深い闇色のインク。
これを手に入れれば、ぼくは、あの完璧な人の一部になれるだろうか。
「いらっしゃいませー」
中年女性の店員がこちらを向いた。
一瞬、鼓動が止まりかける。
ぼくは自分の影が、店内の冷たい床に深く沈んでいくのを感じていた。光が強すぎるこの場所で、ぼくだけが先生と同じ「夜」の色に染まっていく。
これは、ぼくがぼくであるための、最初で最後の証明だ。
……さあ、数式を完成させよう、先生。
冷たい壁の感触が、火照った背中に心地いい。膝を抱え、自然な動作を装って左の掌を見つめる。
そこには、先生が記した『ボールペン』という歪んだ文字列があった。
さっきの涙の湿り気と浮き出た汗のせいで、黒いインクは無惨に滲み始めている。文字の輪郭が崩れ、肌の細かな溝に沿って、黒い毒のようにぼくの肉体へ侵食していく。
(……汚れてる。先生の文字で、ぼくが汚されていく。)
その事実に、下腹部のあたりが熱くなるような錯覚を覚えた。
周囲の連中が健全に汗を流し、健全なルールの中でボールを奪い合っている間に、ぼくは彼らの知らない「正義」を握りしめている。
「バレなければ、それは維月だけの正義になる」
先生の言葉が、鼓膜の奥で甘く反芻された。
視線を上げると、遠くの教官室の窓に、清水先生らしき影が揺れた気がした。
ぼくは滲んだ掌を、そっと頬に押し当てる。
鉄の匂いに似た、安っぽいインクの香りが、どんな香水よりも甘美に感じられた。
――蝉の声とともに夏休みがやってきた。
ぼくは母からもらった小遣いをポケットで握りしめ、駅前の大きな文房具店へと向かった。
自動ドアが開くと同時に、冷房の乾いた空気がぼくを迎え入れる。
これから行うのは、単なる窃盗ではない。
これは、ぼくと先生を繋ぐ、誰にも邪魔されないための「証明」の儀式なのだ。
什器の高さ、照明の角度、L字型のコーナー。
ぼくの目は、もはや文房具を探すためのものではなかった。
昨日、先生が指し示した「死角」という名の聖域。そこへ向かう足取りは、巡礼を果たす信者のように静かだった。
棚に並ぶ無機質な列。
――けれど、その一線の手前で、指先が止まる。
その隣で、場違いなほどの光を放つ一本のガラスペンに目が留まった。
吸い寄せられるように指先を伸ばす。触れた瞬間、ガラス特有の冷徹な温度が指先に伝わる。
それは、先生の指先に触れた時の感覚に、ひどく似ていた。その中の一つに触れた瞬間、ぼくの中の何かが確かに変わった。
これを“選ぶ”だけでいい。たったそれだけで、ぼくは先生の言葉を証明できる。
乾いた冷房の音の中に、自分の鼓膜を叩くような激しい心拍音だけが響く。
死角を縫うように、防犯カメラの無機質なレンズから視線を外す。数学的に計算された、冷徹な回避。
けれど、いざその一線を越えようとしたとき、指先が微かに震えた。
そのときだった。耳元で、あの低い声が聞こえた気がした。
『――いい子だな、維月』
心臓の音が、いっそう激しく跳ねる。
先生の瞳をスポイトで掬い取ったような、深い闇色のインク。
これを手に入れれば、ぼくは、あの完璧な人の一部になれるだろうか。
「いらっしゃいませー」
中年女性の店員がこちらを向いた。
一瞬、鼓動が止まりかける。
ぼくは自分の影が、店内の冷たい床に深く沈んでいくのを感じていた。光が強すぎるこの場所で、ぼくだけが先生と同じ「夜」の色に染まっていく。
これは、ぼくがぼくであるための、最初で最後の証明だ。
……さあ、数式を完成させよう、先生。
