精神崩壊

 ――自分の吐息の音だけが、狭い更衣室に響く。
 制服のボタンを一つずつ外しながら、ぼくはゆっくりと左の掌を開いた。
「……っ」
 思わず息を呑む。
 そこには、清水先生の指先がボールペンを介してぼくの肉体に刻みつけた、唯一無二の刻印があった。
 体温に蒸され、汗で滲んだ『ボールペン』の文字。
 黒いインクは肌の細かな溝に沿って、毛細管現象のようにじわじわと広がっている。それはまるで、先生の影がぼくの皮膚の下を這い回っているような、倒錯した一体感を与えてくれた。
 滲んだ文字を、人差し指でそっとなぞる。
 まだそこに、先生の冷たい指の圧力が残っているような気がした。
(もうすぐ、この文字は消えてしまう。でも、先生がぼくに「汚れ」を命じた事実は、ぼくの血の中に一生残り続けるんだ。)
 掌を頬に押し当てると、微かに鉄っぽいインクの匂い。
それは、先生に血管を暴かれ、そこから直接「罪」を流し込まれたかのような匂いだった。
インクが消えても、ぼくの魂はもう、先生の色に染まっている。
 それはぼくと先生を繋ぐ、世界で一番甘美で、一番残酷な「契約書」だった。
 黙々と着替えを済ませ、体育館へと向かう。
 重い鉄の扉を押し開けると、そこは騒音と熱気の坩堝だった。
 水銀灯の白すぎる光が、埃の舞う空間を無慈悲に照らし出している。
 床を噛むラバーの摩擦音が耳の奥を逆撫でし、誰かの剥き出しの体臭が、湿った空気に混じって鼻を突いた。
 ぼくに視線を向ける者は、ほとんどいなかった。
 クラスメイトたちは、ただのゴムの塊(バスケットボール)を追いかけることに必死だ。彼らの健康的な汗も、必死な叫びも、ぼくにとってはひどく低俗で、退屈なノイズでしかない。

 ――それでいい。
 ぼくには、彼らの知らない「秘密」があるのだから。