結局、二人は何も買わずに店を出た。
自動ドアが閉まり、外の生温かい空気が肌にまとわりつく。先生が帰路につこうとした瞬間、喉の奥に鋭い寂しさが込み上げた。まだ、物足りない。
『……では、また明日 教室でな――』
「――先生、まだ一緒にいたい……」
ぼくは先生の袖を強く握りしめた。上質な生地に、指の形通りの皺が深く刻まれる。
無機質だった先生の目が、わずかに見開かれた。
『……素直だな。参ったよ。どこか行きたい場所でもあるのか?』
呆れたような声。けれど、その眼差しには得体の知れない温度が混じっている。
「あ、あそこ」
視界の端に映ったカフェを、大袈裟に指差した。
『……ほう』
「先生、あのお店!行こうよ!」
初めて見る、先生の虚を突かれたような顔。
胸の奥で、熱い感情が爆発しそうになるのを必死に抑え込む。
『……確かに、喉が渇いたな。行くか』
「やったー!」
ぼくは世間知らずの子供のように、わざとはしゃいでみせた。
先生はそれを見て、静かに微笑み、ぼくの歩調に合わせる。
その笑みが、教育者としての慈愛なのか、それとも別の何かなのか、今のぼくには判別できなかった。
先生の袖を掴んだまま、目的の場所に着いた。
重いドアを両手で押そうとすると、頭上から先生の手が伸びる。カランと、乾燥した鈴の音が店内に響いた。
「わあ……きれい!」
客足はまばらだった。ぼくは端の二人席を選んで腰を下ろす。差し出されたメニューには、甘ったるいホットケーキや色鮮やかなタルトが並んでいた。
「先生の好きな食べ物って、なあに?」
『スイーツなら、ビターチョコレートかクッキーだな』
予想通りの回答に、胸の奥が微かに弾む。
「へえ。先生、大人だね」
『維月は何が好きなんだ?』
「ぼくはね――」
再び、鈴の音が鳴った。
反射的に入り口を振り返った瞬間、視界に「不純物」が飛び込んでくる。
クラスの同級生、男女四人のグループ。下品な笑い声を撒き散らしながら、彼らがぼくたちの聖域を侵食し始めた。
一瞬、思考が白く塗りつぶされる。
彼らの無遠慮な視線に晒され、先生との時間が「噂」という泥に汚されるのは耐え難かった。
「先生、逃げよう!」
メニューを放り出し、ぼくは先生の「手」を握った。
先生は拒絶しなかった。その大きな掌が、ぼくの手を強く包み込む。
裏口から飛び出すと、肺に溜まった店内の冷気を吐き出し、ぼくたちは無我夢中で走り出した。
気づけば、見覚えのない場所まで来ていた。
「……ここ、どこなの?」
『ずいぶん遠くまで来たみたいだな』
手入れの行き届かない、名もなき広場。生い茂る草木が、西日に照らされて影を伸ばしている。人の声は絶え、代わりに小鳥のさえずりだけが、無機質な静寂を埋めていた。
「あ……先生の手、ずっと引っ張ってて、ごめん」
不意に、自分の指先に残る先生の熱に気づいて、慌てて手を離す。先生は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。逃げてきた理由も、ぼくの胸の内の濁りも、すべて見透かしているような顔だった。
二人は並んで、古いベンチに腰を下ろした。
先ほどまでの疾走の余韻で、肺の奥がまだ熱い。
『……維月』
隣で先生が、ぼくの名前を呼んだ。
その声は、広場の静寂に溶け込むほどに低く、けれど心臓を直接掴むような力強さを持っていた。
『……驚いたな。あんなに潔く逃げ出すとは思わなかった』
「……変だった、かな」
『いいや。正しい判断だ。不純なノイズに、ぼくたちの時間を汚される必要はない。……維月は、自分の守るべきものが何であるか、直感的に理解しているんだね』
(ぼくたちの、時間――)
その言葉が、甘い毒のように全身を痺れさせた。
『明日の本番も、その直感を信じなさい。誰にも邪魔されない、君だけの「正義」を完成させるんだ』
「ぼくだけの、正義……」
空を見上げれば、日はすでに輪郭を失い始めていた。
『そろそろ帰るとするか。ずいぶん遠くまで来てしまった』
帰りたくない。けれど、逆らうこともできない。
先生が目の前に、大きな掌を差し出した。ぼくは躊躇なくその手を取る。先生は急かすこともなく、ぼくの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
街灯が灯り始めた見覚えのある街。駅を通り過ぎようとしたとき、ぼくは足を止めた。
「え……先生、帰らないの?」
『……暗いからな。送るよ』
心地よい沈黙の中、繋いだ手から伝わる体温だけが、ぼくの世界を支配していた。
やがて、古びた黒い屋根が見えてくる。少し苔のついた白い壁。すべてのカーテンが閉ざされた、沈黙する二階建ての家。
「先生、ぼくの家、ここだよ」
『そうか。素敵な家だね』
「嘘だ。……こんなに、汚いのに」
全国模試の一位を貼り出すには、あまりに相応しくない場所。先生の解釈は、やはりぼくの予想を裏切る。
『……そんなことはない。では明日、また教室でな』
「うん。……先生、バイバイ」
ぎこちなく手を振ると、先生は背を向けたまま、右手を軽く上げた。
規則正しく響く革靴の音。それが遠ざかるにつれ、掌に残った熱が、夜の冷気に奪われていった。
自動ドアが閉まり、外の生温かい空気が肌にまとわりつく。先生が帰路につこうとした瞬間、喉の奥に鋭い寂しさが込み上げた。まだ、物足りない。
『……では、また明日 教室でな――』
「――先生、まだ一緒にいたい……」
ぼくは先生の袖を強く握りしめた。上質な生地に、指の形通りの皺が深く刻まれる。
無機質だった先生の目が、わずかに見開かれた。
『……素直だな。参ったよ。どこか行きたい場所でもあるのか?』
呆れたような声。けれど、その眼差しには得体の知れない温度が混じっている。
「あ、あそこ」
視界の端に映ったカフェを、大袈裟に指差した。
『……ほう』
「先生、あのお店!行こうよ!」
初めて見る、先生の虚を突かれたような顔。
胸の奥で、熱い感情が爆発しそうになるのを必死に抑え込む。
『……確かに、喉が渇いたな。行くか』
「やったー!」
ぼくは世間知らずの子供のように、わざとはしゃいでみせた。
先生はそれを見て、静かに微笑み、ぼくの歩調に合わせる。
その笑みが、教育者としての慈愛なのか、それとも別の何かなのか、今のぼくには判別できなかった。
先生の袖を掴んだまま、目的の場所に着いた。
重いドアを両手で押そうとすると、頭上から先生の手が伸びる。カランと、乾燥した鈴の音が店内に響いた。
「わあ……きれい!」
客足はまばらだった。ぼくは端の二人席を選んで腰を下ろす。差し出されたメニューには、甘ったるいホットケーキや色鮮やかなタルトが並んでいた。
「先生の好きな食べ物って、なあに?」
『スイーツなら、ビターチョコレートかクッキーだな』
予想通りの回答に、胸の奥が微かに弾む。
「へえ。先生、大人だね」
『維月は何が好きなんだ?』
「ぼくはね――」
再び、鈴の音が鳴った。
反射的に入り口を振り返った瞬間、視界に「不純物」が飛び込んでくる。
クラスの同級生、男女四人のグループ。下品な笑い声を撒き散らしながら、彼らがぼくたちの聖域を侵食し始めた。
一瞬、思考が白く塗りつぶされる。
彼らの無遠慮な視線に晒され、先生との時間が「噂」という泥に汚されるのは耐え難かった。
「先生、逃げよう!」
メニューを放り出し、ぼくは先生の「手」を握った。
先生は拒絶しなかった。その大きな掌が、ぼくの手を強く包み込む。
裏口から飛び出すと、肺に溜まった店内の冷気を吐き出し、ぼくたちは無我夢中で走り出した。
気づけば、見覚えのない場所まで来ていた。
「……ここ、どこなの?」
『ずいぶん遠くまで来たみたいだな』
手入れの行き届かない、名もなき広場。生い茂る草木が、西日に照らされて影を伸ばしている。人の声は絶え、代わりに小鳥のさえずりだけが、無機質な静寂を埋めていた。
「あ……先生の手、ずっと引っ張ってて、ごめん」
不意に、自分の指先に残る先生の熱に気づいて、慌てて手を離す。先生は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。逃げてきた理由も、ぼくの胸の内の濁りも、すべて見透かしているような顔だった。
二人は並んで、古いベンチに腰を下ろした。
先ほどまでの疾走の余韻で、肺の奥がまだ熱い。
『……維月』
隣で先生が、ぼくの名前を呼んだ。
その声は、広場の静寂に溶け込むほどに低く、けれど心臓を直接掴むような力強さを持っていた。
『……驚いたな。あんなに潔く逃げ出すとは思わなかった』
「……変だった、かな」
『いいや。正しい判断だ。不純なノイズに、ぼくたちの時間を汚される必要はない。……維月は、自分の守るべきものが何であるか、直感的に理解しているんだね』
(ぼくたちの、時間――)
その言葉が、甘い毒のように全身を痺れさせた。
『明日の本番も、その直感を信じなさい。誰にも邪魔されない、君だけの「正義」を完成させるんだ』
「ぼくだけの、正義……」
空を見上げれば、日はすでに輪郭を失い始めていた。
『そろそろ帰るとするか。ずいぶん遠くまで来てしまった』
帰りたくない。けれど、逆らうこともできない。
先生が目の前に、大きな掌を差し出した。ぼくは躊躇なくその手を取る。先生は急かすこともなく、ぼくの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
街灯が灯り始めた見覚えのある街。駅を通り過ぎようとしたとき、ぼくは足を止めた。
「え……先生、帰らないの?」
『……暗いからな。送るよ』
心地よい沈黙の中、繋いだ手から伝わる体温だけが、ぼくの世界を支配していた。
やがて、古びた黒い屋根が見えてくる。少し苔のついた白い壁。すべてのカーテンが閉ざされた、沈黙する二階建ての家。
「先生、ぼくの家、ここだよ」
『そうか。素敵な家だね』
「嘘だ。……こんなに、汚いのに」
全国模試の一位を貼り出すには、あまりに相応しくない場所。先生の解釈は、やはりぼくの予想を裏切る。
『……そんなことはない。では明日、また教室でな』
「うん。……先生、バイバイ」
ぎこちなく手を振ると、先生は背を向けたまま、右手を軽く上げた。
規則正しく響く革靴の音。それが遠ざかるにつれ、掌に残った熱が、夜の冷気に奪われていった。
