精神崩壊

 ――待ちに待った翌日。
 初めての「デート」に、ぼくは服選びという無意味な工程を楽しんでいた。
 灰色のセーターに、燻んだ藍色のデニム。鏡の中の自分は、過不足なく「可愛い教え子」を演じている。
 新品のシューズに足を通し、ショルダーバッグを肩にかけた。母への「行ってくる」は、あえて喉の奥に飲み込んだ。
 駅前には、黒いスーツの男が立っていた。
 腕時計に視線を落とし、微動だにせず時を刻むのを待つ姿。学校で見るよりも、その瞳はさらに冷たく、色彩を欠いているように見えた。
『……来たか、維月』
 群衆の中から、先生はぼくを正確に見つけ出した。
 抑えきれない高揚感が、ぼくの足を跳ねさせる。本来の「人見知りなぼく」を脱ぎ捨て、大きく手を振った。
「先生、おはよー!」
『おはよう』
「なんでスーツなの?」
 先生は自分の肩を無造作に払い、視線を落とした。
『……これが、一番効率がいいからな』
 私服という「揺らぎ」を期待していた自分が、少しだけ恥ずかしくなる。
 けれど、横に並んで歩くシルエットは、影の中で確かに重なっていた。
 手を繋ぐ勇気はない。その代わりに、ぼくは先生のスーツの袖を、指先でそっと掴んだ。
 先生の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
(……皺になっても、許してね。)

 駅前の文房具店。
『ここだね』
「ふふ、楽しみー」
 何気ない会話を装い、自動ドアを抜ける。冷房の涼しい空気が、ぼくと先生を誘った。
 周囲の目には、仲睦まじい教師と生徒の買い物風景に映るだろう。先生は入学式で見せた「良き教師」の仮面を完璧に被り直していた。
 けれど、ふとした瞬間に送られる視線の鋭さ――。それは、ぼくだけに向けられた『数式の合図』だった。ぼくは小さく頷き、その共犯の合図を飲み込んだ。
 自動ドアの開閉音、冷房の唸り、無機質な店内アナウンス。
 雑音の渦の中で、先生が静かに口を開く。
『……数学的に空間を捉えなさい』
「ん?」
『あそこだ。光と影の境界線を見ろ』
 先生の視線を追う。什器が重なり、照明の届かない「死角」がそこにあった。
『あそこには、人の意識の欠落が生まれる。致命的な隙だ』
 視界の端で、幼い子に気を取られている店員の背中が見えた。
「あ……本当だ。油断してるね 」
 店内を一通り巡り、ぼくは先生の視線が自分を射抜いていることに気づく。
「なあに、先生。そんなにジロジロ見て」
 先生はふっと息を漏らし、口角をわずかに釣り上げた。仮面の奥から、隠しきれない愉悦が覗く。
『……決まったか?』
「ふふ、秘密ー」
 ぼくは人差し指を唇に当てた。
 先生は呆れたように、あるいはぼくの成長を確信したように、静かに顔を背けた。