皺一つない黒いスラックス。その中にある先生の長い脚を見つめていた視線を、顔へと戻す。
眼鏡の奥、ハイライトの消えかかった瞳がぼくを捉えていた。
『――いい子だな、維月』
甘く囁くその言葉は、これから「いけないこと」を仕向ける子供にかけるべきものではなかった。けれど、その一言で、ぼくの血が沸騰したように熱くなる。褒められたい。認められたい。そのためなら、ぼくはなんだって踏み越えていける。
『手を貸してくれ』
先生は胸ポケットから黒のボールペンを取り出すと、キャスター付きの椅子を滑らせてぼくの隣に移動した。
ぼくの左手に触れる、冷たい指先。カッターナイフを見せられたあの時よりも、さらに冷たく感じた。
先生はそのペンで、ぼくの甲ではなく、掌に何かを書き込んでいく。
「盗むべきもの」の印。掌を這うペンの感触に、背筋が震えた。
『ボールペン』
完璧だったはずのフォントが、ぼくの肌の上でわずかに歪んでいる。
「へー。先生、ボールペンが欲しいんだ」
ぼくは「一番綺麗なもの」ではなく、「欲しいもの」だと解釈した。
『うん。欲しいな』
先生はあっさり認めた。
損をしないよう、あえて日常的なものを選んだのだろうか。それが、いかにも清水先生らしい。
見れば、先生の持つペンのインクは残りわずかだった。
「わかった。覚えとく!」
メモは、忘れないために書くのではない。忘れてもいいように書くものだ。
けれど、先生がぼくの肌に直接刻んだ言葉を、ぼくが忘れるはずなんてなかった。
「でも先生、どこの店ですればいいの?」
『そうだな……数学的に死角が多い店を教えよう。――さて、問題だ』
先生の出すクイズは、授業の問題よりもずっと、ぼくの心を昂ぶらせる。
『大型スーパーのような「大きい店」と、コンビニのような「小さい店」。どちらが死角が多いと思う?』
「うーん……大きい店!」
『正解だ。見事だよ。絶対的な死角の数は「大きい店」の方が多い。だが、「小さい店」は配置によって致命的な死角が生まれやすいんだ』
「配置によって……。へぇ、じゃあ場所によるんだね」
『そうだ。特に共通するポイントが四つある。什器が高い、照明が暗い、店舗がL字やコの字型である、そして広告やポップが多いこと。これらが揃うと、死角が生じやすい』
先生はデスクに置かれたスマートフォンを手に取り、手慣れた動作で何かを検索した。眩しく光る画面が、先生の眼鏡に白く反射する。
『……文房具店は、ここだな』
差し出された画面を覗き込む。光に当てられ、ぼくの瞳孔が小さく窄まった。
「あー、駅の近くの店だ!」
『ああ、そうだ。明日、予定がないなら下見に行くぞ』
期待で胸が跳ねた。細めていた目を大きく見開く。
ぼくは弾かれたように、何度も上下に頷いた。
薄暗い準備室の中で、ぼくたちは明日の集合場所と時間を確認し合う。
それはまるで、世界でぼくたちだけが共有する、密やかな企てのようだった。
埃と木材の匂い。そこに先生の吐息が混ざり合う。
窓の外を見れば、あっという間に日が暮れていた。
先生と過ごす時間は、いつも残酷なほど短く感じられた。
眼鏡の奥、ハイライトの消えかかった瞳がぼくを捉えていた。
『――いい子だな、維月』
甘く囁くその言葉は、これから「いけないこと」を仕向ける子供にかけるべきものではなかった。けれど、その一言で、ぼくの血が沸騰したように熱くなる。褒められたい。認められたい。そのためなら、ぼくはなんだって踏み越えていける。
『手を貸してくれ』
先生は胸ポケットから黒のボールペンを取り出すと、キャスター付きの椅子を滑らせてぼくの隣に移動した。
ぼくの左手に触れる、冷たい指先。カッターナイフを見せられたあの時よりも、さらに冷たく感じた。
先生はそのペンで、ぼくの甲ではなく、掌に何かを書き込んでいく。
「盗むべきもの」の印。掌を這うペンの感触に、背筋が震えた。
『ボールペン』
完璧だったはずのフォントが、ぼくの肌の上でわずかに歪んでいる。
「へー。先生、ボールペンが欲しいんだ」
ぼくは「一番綺麗なもの」ではなく、「欲しいもの」だと解釈した。
『うん。欲しいな』
先生はあっさり認めた。
損をしないよう、あえて日常的なものを選んだのだろうか。それが、いかにも清水先生らしい。
見れば、先生の持つペンのインクは残りわずかだった。
「わかった。覚えとく!」
メモは、忘れないために書くのではない。忘れてもいいように書くものだ。
けれど、先生がぼくの肌に直接刻んだ言葉を、ぼくが忘れるはずなんてなかった。
「でも先生、どこの店ですればいいの?」
『そうだな……数学的に死角が多い店を教えよう。――さて、問題だ』
先生の出すクイズは、授業の問題よりもずっと、ぼくの心を昂ぶらせる。
『大型スーパーのような「大きい店」と、コンビニのような「小さい店」。どちらが死角が多いと思う?』
「うーん……大きい店!」
『正解だ。見事だよ。絶対的な死角の数は「大きい店」の方が多い。だが、「小さい店」は配置によって致命的な死角が生まれやすいんだ』
「配置によって……。へぇ、じゃあ場所によるんだね」
『そうだ。特に共通するポイントが四つある。什器が高い、照明が暗い、店舗がL字やコの字型である、そして広告やポップが多いこと。これらが揃うと、死角が生じやすい』
先生はデスクに置かれたスマートフォンを手に取り、手慣れた動作で何かを検索した。眩しく光る画面が、先生の眼鏡に白く反射する。
『……文房具店は、ここだな』
差し出された画面を覗き込む。光に当てられ、ぼくの瞳孔が小さく窄まった。
「あー、駅の近くの店だ!」
『ああ、そうだ。明日、予定がないなら下見に行くぞ』
期待で胸が跳ねた。細めていた目を大きく見開く。
ぼくは弾かれたように、何度も上下に頷いた。
薄暗い準備室の中で、ぼくたちは明日の集合場所と時間を確認し合う。
それはまるで、世界でぼくたちだけが共有する、密やかな企てのようだった。
埃と木材の匂い。そこに先生の吐息が混ざり合う。
窓の外を見れば、あっという間に日が暮れていた。
先生と過ごす時間は、いつも残酷なほど短く感じられた。
