精神崩壊

 ――その日の放課後。ぼくは吸い寄せられるように、誰もいない準備室へと足を向けていた。
 扉を細く開けると、埃の舞う光の中に清水先生がいた。キャスター付きの椅子に深く腰掛け、デスクの上にはさっきの小テストの束が積まれている。
『来たね、維月』
 先生は赤インクのボールペンを置くと、ぼくを手招きした。
 指先の一つひとつの動きが、やはり計算されたように美しい。
 けれど、今の先生からは、昇降口で見せた「優しい教師」の気配が消えていた。
『嫌なことがあったんだろう? なら、自分を罰してみるか。それとも、世界を汚してみるか』
 先生がスラックスのポケットに手を差し込む。
 衣擦れの小さな音。引き抜かれた手の中にあったのは、西日を暴力的に跳ね返す、銀色の細長い塊だった。
 親指の腹でスライダーが押し上げられる。
 ジジッ、と乾いた音が、静寂を切り裂いた。
 現れたのは、まだ一度も何をも傷つけたことのなさそうな、研ぎ澄まされた刃先。
先生の冷徹な理性そのもののような、薄く、鋭い銀の光。
それは、学校という平穏に持ち込むべきではない、剥き出しの毒だった。
 それは、鋭利なカッターナイフだった。
「……え。先生、それって……」
『これを使って、何か「いけないこと」をしてみないか。例えば――』
 先生はぼくの手をとり、氷のように冷たい指先でぼくの手の甲をなぞった。
血管の脈動を確かめるような、ねっとりとした愛撫。
『店の棚から、一番綺麗なものを自分のものにする、とか。……バレなければ、それは維月だけの正義になる』
 ぼくは息を呑んだ。
 完璧だと思っていたこの人が、ぼくに「汚れ」を教えようとしている。
泥を塗られているのではない。ぼくは、この人の色に染め替えられているんだ。言いようのない悦びが、背筋を這い上がってきた。
 整いすぎたものが嫌いなはずなのに。
 先生の手によって、自分の人生が確実に泥を塗られていく。
 その感覚に、ぼくは言いようのない悦びを感じていた。
 
「……やってみたい。先生が教えてくれるなら――」