精神崩壊

 ――清掃が終わり、クラスメイトたちが一斉に教室を抜け出していく。
 ぼくは、通販で買ってもらった黒いリュックサックに荷物を詰めた。家では勉強をしない。教科書の類はすべて机の中だ。
 背負ったリュックサックは、小柄なぼくの体にはまだ少し大きかった。
 亀の甲羅のように重い「日常」を背負ったぼくを、先生の無機質な瞳が捉える。
 人波に混じり、昇降口へ向かおうとした時だ。
『……維月。維月、聞こえているのか?』
 喧騒の向こうから、下の名前を呼ぶ声がした。
 気づかないふりをして、ぼくはわざと足早に廊下を歩く。意図的な無視だ。
『――維月』
 さっきより、少し大きな声。
 けれど、肩を叩くような無遠慮な接触はなかった。
 ぼくは足を止め、ゆっくりと振り返る。
 そこには、中指と薬指で眼鏡を押し上げている清水先生がいた。
 あれだけ歩いたはずなのに、先生の呼吸は一つも乱れていない。
「……なあに、先生」
 首を少し傾けて、一番「可愛い教え子」に見える角度で問いかける。
 実際には、一秒たりとも忘れてなんていなかった。先生がくれた約束だけを、ずっと胸の中で数えていたんだ。
 
『ほら、言っただろう。また声をかけるって』
「あー、あれね」
 思い出したように、あどけなく笑ってみせる。
 実際には、一秒たりとも忘れてなんていなかったけれど。
『教室にはまだ人がいる。準備室で話そうか』
「……うん!」
 ぼくは短く頷いた。
 案内してくれる先生の背中についていく。
 不意に、入学式の日の光景が頭をよぎった。

 案内してくれる先生の背中についていく。
 入学式の日に感じた、あの胸を突くような熱が、今は心地いい確信に変わっている。
 準備室のドアの向こうには、その先には、ぼくだけの正解。甘い罠が口を開けて待っている。