穢れの軍神と縁の花嫁

 翌日。屋敷を出た二人は、人通りの少ない道を並んで歩いた。空は晴れ渡り、柔らかな春の日差しが降り注いでいる。行き先を聞いても朔哉は答えてくれなかったが、見覚えのある森へ入ったところで、みづきにも分かった。

 「どこへ行くんですか?」
 「幽明の庭、という場所があるんだ」

 聞き慣れない名前だった。

 「幽明の庭、ですか?」
 「現世とあやかしの世界の狭間にある場所だよ。幽識の力を持つ者だけが辿り着ける」

 朔哉は静かに続けた。

 「中央に千縁樹という大樹がある。幼い頃に初めて訪れて、羅刹と契約を結んだのもその木の下でね」
 「朔哉さんにとって、大切な場所なんですね」
 「ああ。ただ、あやかし化が進んでからは、境界に弾かれて入れなくなっていた」

 朔哉がここへ来たかった理由を、みづきはようやく理解した。

 「じゃあ、もし入れるなら……」

 朔哉の中から、境界を乱す瘴気が本当に消えたということになる。

 「あの、その場所って私も一緒に行けるんでしょうか」
 「縁の力が完全に目覚めた今の君なら、きっと大丈夫だよ」
 「きっと、ですか?」
 「絶対と言ってほしい?」
 「……少しだけ」

 正直に答えると、朔哉は小さく笑った。

 「それなら、俺が手を離さない」

 そう言って、朔哉は左手を差し出した。白い包帯に覆われた、みづきが毎日のように触れてきた手だった。みづきは迷うことなく、その手を取った。

 「行こうか」
 「はい」

 森の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ変わっていく。木々の間を漂う靄。
 どこからともなく聞こえる水の音。現実とは思えないような深い静けさが立ち込めている。

 靄へ触れる直前、朔哉の足がほんのわずかに止まった。その視線が、つないだ左手へ落ちる。朔哉自身にも、確信はないのだ。

 みづきは何も言わなかった。ただ、つないだ手を離さずに隣へ立った。

 朔哉が顔を上げ、再び歩き出した。

 一歩。さらに一歩。拒む力はなかった。
 身体を押し戻す痛みも、境界が軋む気配もない。靄が晴れ、目の前に柔らかな光が広がる。気づけば二人は、幽明の庭の内側へ立っていた。

 朔哉が、ゆっくりと息を吐く。

 「……入れたな」

 その声は、わずかに震えていた。

 「はい」

 みづきはそれだけ答えた。今度は、朔哉の方からつないだ手へ力を込めた。

 庭が朔哉を受け入れた。朔哉のあやかし化は、本当に終わったのだ。

 やがて視界の先に、大きな木が見えてきた。
 千縁樹。空を覆うほど大きく枝を広げ、淡い薄紅色の花を無数に咲かせている。二人が近づくと、花びらが祝福するように舞い始めた。

 みづきは枝の間に、淡い光の糸が見えることに気づいた。数え切れないほどの光が、枝から枝へと伸び、重なり、どこか遠くへ続いている。

 父と母。故郷の人々。リツ。羅刹。紗世やタキ、静馬。そして、朔哉。

 失ったものも、新しく得たものも、すべて自分の中でつながっている。そのうちの一本が、自分から朔哉へ伸びていた。他のどの糸より太く、強く、柔らかな光を放っている。

 みづきの胸の奥が温かくなった。

 「みづき」

 名前を呼ばれ、朔哉へ振り返る。

 「あの時――君は、俺が何になってもいい、と言ってくれた。傷つきながらも離さなかった。そして、愛してると言ってくれた」
 「……お、覚えていたんですか?」
 「あれほど大切な言葉を、忘れるはずがないよ」

 朔哉は、淡い薄紅色の花を咲かせる千縁樹を見上げた。

 「昔、祖父から聞いたんだ。この木の下で、運命によって結ばれた二人が互いの想いを告げれば、その縁は千へ広がると」

 風が吹き、頭上の枝が静かに揺れた。

 「俺はずっと、幸せを望んではいけないと思っていた。いつかあやかしになる。だから、君が五百森家へ来た時も、居場所を与えるだけでいいと思っていた。それ以上を望んではならないと自分に言い聞かせていた」

 みづきの頬に熱が集まってくる。

 「この気持ちを認めたくなかった。認めれば、手放せなくなるから」

 朔哉の声が、少しだけ柔らかくなる。

 「君が笑うと嬉しかった。名前を呼ばれるだけで、家へ帰ってきたような気がした。君が誰かと楽しそうにしていれば気になったし、帰りを待っていると知れば、少しでも早く戻りたいと思った」

 みづきは黙っていることができなかった。

 「私もです」
 「え?」
 「朔哉さんの帰りを、いつも待っていました。帰ってくる足音が聞こえるだけで、安心しました」

 朔哉が少し驚いた顔をする。それから、目を細めた。

 「それでも、君が俺を見てくれるほど、手放したくないと思うほど、怖くなった。俺が消えたあと、君を一人にしてしまうのが」
 「でも」

 みづきはまっすぐ朔哉を見た。

 「私はもう、知っています。あなたが何になっても、私にとっては朔哉さんです。それは、あの時から変わっていません」

 朔哉はしばらく、みづきを見つめていた。

 花びらが、二人の間を舞う。

 「あの日、君の声を聞いた時に初めて思えた」

 静かな声だった。

 「幸せを望んでもいいのだと」

 朔哉はつないでいた手を一度離した。
 それから、左腕の袖をゆっくりと捲り上げる。包帯を解き始めた。

 「ここでは、いらないかなと思って」

 白い包帯が外れ、黒い鱗に覆われた腕があらわになる。その上へ一枚舞い降りた。
 風が吹き、千縁樹に咲く花の花びらが舞い落ちる。鱗の上を滑り、足元へ落ちた。

 朔哉はみづきへ、その手を差し出した。

 「触れてもいい?」

 みづきは少しだけ目を瞬いた。
 これまで何度も触れてきた。包帯を巻くたびに、毎晩のように。怖いと思ったことは、一度もなかった。

 けれど今、朔哉がそう問いかけてきたのは、包帯の下を隠すためでも、瘴気を抑えるためでもない。ただそのままの腕を、みづきに受け取ってほしいから、だと思った。

 「はい」

 みづきは両手でその手を包んだ。鱗の硬さ。少し低い温度。よく知っている、朔哉の手だった。

 「俺は君を愛してる。君が帰る場所を、俺に守らせてほしい。そして——俺が帰る場所にも、なってほしい。
 だから、俺と結婚してくれないか」

 涙が、静かに頬を伝った。
 みづきはずっと、帰る場所を探していた。故郷を失ってから、どこへ行っても拒絶された。五百森家へ来てからも、最初は客人として置いてもらっているだけだと思っていた。

 けれど今は違う。帰る場所とは、ただ雨風を凌ぐための場所ではない。自分を待ってくれる人がいる場所。帰ってきた時に、名前を呼んでくれる人がいる場所。

 みづきはつないだ手に、そっと力を込めた。

 「はい」

 涙をこらえながら、はっきりと答えた。

 「そして私も——朔哉さんが帰ってくる場所になりたいです」

 「ありがとう」

  朔哉の目が、柔らかく細められて、朔哉は握り返した。

 「君を誰よりも幸せな花嫁にする。約束するよ」

 その時、千縁樹の高い枝が大きく揺れた。無数の花びらが空へ舞い上がり、二人の周囲へ降り注ぐ。

 「みづき」
 「はい」
 「もうひとつ、願ってもいいかな」

 いつもよりわずかに低い声に、胸が高鳴った。朔哉の左手が、みづきの頬へそっと添えられる。

 鱗は硬く、ほのかに温かな体温。
 けれど、その手をみづきはよく知っていた。
 何度も包帯を巻いた。
 何度も触れ、何度も救われた。

 距離が近づく。
 朔哉の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 みづきは頬を熱くしながら小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じた。

 頬に添えられた手が、かすかに動く。

 千縁樹の花びらが舞う中、朔哉の唇が、みづきの唇へそっと重なった。






 どこかの枝の上で、羅刹が翼を畳んでいた。

 白髪の老人の姿で、二人へ背を向け、遠い空を見つめている。

 長く生きてきた。いくつもの縁が結ばれ、いくつもの縁が断たれるのを見てきた。けれど、こうして新しい縁が生まれる瞬間は、何度見ても悪くないものだと思う。

 「さて」

 羅刹は小さく呟いた。

 「また、新たな縁が結ばれたようじゃな」

 翼が広がる。羅刹は千縁樹の枝を蹴り、静かに空へ飛び立った。

 千縁樹の下には、花びらだけが降り続けていた。