穢れの軍神と縁の花嫁

 五百森家を襲った事件から、ひと月が過ぎた。

 穢野へ変わりかけた庭には、あの日の傷跡はまったく残っていない。
 黒く枯れた草は以前よりも鮮やかな緑を取り戻し、濁っていた池では色鮮やかな魚たちが尾を揺らしている。庭木にも新たな芽が生まれ、枝に戻ってきた小鳥たちが、朝から賑やかに鳴いていた。

 朔哉の身体も、すっかり回復していた。

 禁術によって進行したあやかし化は消え、体内に残っていた瘴気も、静馬が何度調べても見つからなかった。ただ、黒い鱗に覆われた左腕だけは、以前の姿へ戻らなかった。

 それでも、もう痛みもなければ、瘴気が漏れ出すこともない。今後あやかし化が進行する兆しもないという。

 鷲宮は禁術の使用や違法な討伐命令を出した責任を問われ、現在は軍法会議にかけられている。暁斗も処分を免れたわけではないが、必要な調査にはすべて応じ、五百森家へも以前と変わらず顔を出すようになっていた。静馬は相変わらず朔哉の無茶を監視し、紗世は相変わらず静馬を目で追っている。リツは、事件の間に自分だけ森へ逃がされたことをしばらく怒っていたが、今では以前と変わらず庭を駆け回っていた。

 何もかもが元通りになったわけではない。それでも、五百森家には日常が戻っていた。

 夕暮れ時の書斎は、いつもより静かだった。

 みづきは包帯を手に、朔哉の隣へ腰を下ろす。これが二人の習慣になってから、もうずいぶん経つ。

「あの、朔哉さん」
「うん?」
「もう瘴気はないですし、静馬さんの術も必要ないのに、包帯を続けているのはどうしてですか?」

 朔哉は少しだけ間を置いてから、どこか照れたように視線を逸らした。

「いきなり鱗の腕を見せたら、驚く人もいるからね。一応巻いておいた方が都合がいいからね。それに、こうして君との時間の口実にもなる」

 口元に薄く笑みを浮かべた朔哉に、みづきは思わず手を止めた。

「……朔哉さん」
「駄目だった?」
「駄目ではないです、けど」

 顔が熱くなる。みづきは誤魔化すように包帯を巻き始めた。
 
 巻き終えると、朔哉は右手で懐から小さなものを取り出した。それは、あの狐の根付だった。

「あっ……」

 事件の日、走りながら組紐が切れて、地面に落ちた根付。

「新しい紐に変えたよ。今度は、簡単には切れないものを選んだんだ」
「ありがとうございます」

 みづきはそっと受け取った。以前より少し太く深い赤色をした丈夫な紐が、小さな狐にしっかりと結ばれている。

「これならもう切れないですね」
「絶対とは言い切れないけれどね。どんなに丈夫なものでも、強く引かれれば切れることはある」

みづきは帯につけようとして迷った。

「じゃあ、これは部屋に置いておきます」
「どうして?」
「だって、また落としてしまうかもしれないですし……」
「その時は、また拾えばいい。何度でも、俺が結び直すよ」

 その言葉が、胸の奥へ温かく落ちた。

「明日、少し付き合ってほしい場所があるんだけど」
「どこですか?」
「行けば分かるよ。見せたいものがある」

 みづきは根付を握ったまま、朔哉を見上げた。
 穏やかな眼差しが、どこか楽しみにしているように見えて、みづきもつられて頷いた。