穢れの軍神と縁の花嫁

 五百森家襲撃から、三日が経った。

 二度にわたる禁術によって、強制的にあやかし化を進められたものの、幸い命に別状はなかった。首筋や肩にまで広がっていた黒い鱗も消え、新たな侵食は確認されていない。
 残ったのは、以前と変わらぬ異形の左腕と、急激な瘴気の増幅によって消耗した身体――静馬と軍医からは、少なくとも一週間は絶対安静だと言い渡されている。

 「朔哉さん」

 病室の扉を開けたみづきは、寝台の上にいる朔哉を見て、ぴたりと足を止めた。

 「何をしているんですか」

 朔哉は寝台の背へ身体を預け、右手で書類を読んでいた。白い病衣の左袖から、黒い鱗に覆われた腕が覗いている。

 「少し、状況を確認していただけだよ」
 「安静にしていなければ駄目です」
 「横になって書類を読んでいるだけだけど」
 「書類を読まずに横になってください」

 みづきは寝台の横まで歩み寄ると、朔哉の手から書類を取り上げた。

 「あ」
 「『あ』ではありません」

 書類を机の上へ置き、代わりに湯飲みを手渡す。

 「軍医の先生も、静馬さんも、無理をしてはいけないと言っていました」
 「もう十分休んだと思うんだけどね」
 「三日前に倒れた人が、何を言っているんですか」

 朔哉は困ったように笑った。その笑顔を見ると、みづきは強く叱れなくなってしまう。

 あの日。赤く染まっていた瞳。異形となった爪。五百森家を覆った黒い穢れ。あの姿を思い出すだけで、今も胸が締めつけられる。けれど、目の前にいる朔哉は穏やかに笑っている。右手には確かな温もりがあり、呼吸も落ち着いていた。

 無事に戻ってきてくれた。それだけで十分なはずなのに。

 「どうしたの?」

 朔哉に見つめられ、みづきは我に返る。

 「いえ……」
 「また、俺が消えてしまわないか心配している?」

 心の内を見透かされたようで、みづきは目を伏せた。

 「少しだけ」
 「少し?」
 「……とても、心配しています」

 正直に答えると、朔哉は湯飲みを脇の台へ置いた。右手が伸びてくる。みづきの頬へ触れようとして、その指先が途中で止まった。

 「痛む?」
 「いいえ、もう全部治っていますから」

 瘴気の中を進んだ時に傷ついたみづきの体は、縁の浄化の力によってすべて消え去っている。

 「そうか、それならよかった」

 朔哉はそう答えたものの、表情は曇ったままだった。黒い左腕へ視線を落とす。

 「俺が君を傷つけてしまった」
 「朔哉さんのせいじゃありません。それに、私が自分から飛び込んだんです。だから、後悔していません」

 みづきは、はっきりと告げた。朔哉が顔を上げる。

 「あの時、朔哉さんのところへ行かなかったら、私はきっと一生後悔していました」

 その左腕へ、そっと両手で触れる。鱗の硬さもわずかに低い体温も、これまでと変わらない。

 「だから、謝らないでください」
 「……強くなったね」

 朔哉が小さく笑った。

 「誰のせいだと思っているんですか」
 「俺のせい、と言いたげな顔をしているね」
 「そうですよ?」

 みづきが答えると、朔哉は少し嬉しそうに目を細めた。
 その時。病室の外から、何かが壁へぶつかるような鈍い音がした。続いて、低い舌打ちが聞こえる。
 みづきが扉へ目を向ける。

 「今、誰か……」
 「入ったらどうだ、暁斗」

 朔哉が扉へ向かって声をかけた。しばらく返事はなかった。やがて、諦めたような溜息が聞こえ、扉がゆっくり開く。
 姿を現したのは暁斗だった。
 軍服姿ではあるものの、腰に刀は帯びていない。いつものような豪快さもなく、ひどく居心地が悪そうに病室へ入ってくる。

 「いつから気づいてた」
 「廊下を三度ほど往復していた辺りから」
 「最初からじゃねえか」
 「声をかけるまで、もう少しかかるかと思っていたよ」

 暁斗は、朔哉の顔をまともに見ようとしなかった。
 みづきは椅子から立ち上がる。

 「私は、少し外へ」
 「いや」

 暁斗が遮った。みづきが振り返る。暁斗は一度唇を引き結び、それから低い声で続けた。

 「あんたにも、聞いてほしい」
 「私にも、ですか?」
 「ああ」

 座るよう勧めるべきか、みづきが迷っていると、朔哉が窓際の椅子を示した。

 「座ったらどうだ」
 「立ったままでいい」

 朔哉はそれ以上勧めなかった。

 暁斗は両手を握り締める。何か言おうとして、何度か口を開きかけた。けれど、言葉が出てこない。朔哉は急かさなかった。静かに、暁斗が話し始めるのを待っている。

 「……悪かった」

 ようやく暁斗の口から出たのは、短い謝罪だった。

 視線は床へ落ちたままだ。

 「何が、とは言わねえ。全部だ」

 病室に、重い沈黙が落ちる。

 暁斗は両手を強く握りしめた。何かを言おうとして、何度か唇を動かす。それでも言葉が続かず、朔哉は急かさずに待っていた。

 やがて、暁斗が低い声で告げる。

 「俺は、ずっと密命を受けていた。お前のあやかし化が進んで、理性を失った時は――俺が討てって」

 病室の空気が、凍りついたように静まった。
 朔哉の表情から、わずかに色が消える。

 「それは、いつのことだ?」
 「五年前だ」

 それは、朔哉の左腕に初めてあやかし化の兆候が現れた頃と重なる。

 「お前に一番近くて、剣で止められる可能性があるのは俺だとよ。ずいぶんと買い被られたもんだ」

 暁斗は乾いた笑いを漏らした。

 「最初は、断ろうと思った。でも俺が拒めば、別の誰かへ命令が下る。そいつがお前を止められる保証もない。だったら、俺が引き受けるしかねえと思った」

 同じ戦場へ立ち背中を預け、時に笑い合う。
 その一方で、いつかその友の命を、自らの剣で絶たなければならない。暁斗はそんな未来を、五年もの間、ひとりで抱えていた。

 「何も知らねえお前が、俺を信じて背中を預けてくるたびに、いつかこの背中を斬るのかって、ずっと思ってた」

 暁斗は堪えきれなくなったように視線を落としてから、少しだけみづきに視線を向ける。

 「だから、あんたが現れた時希望を見た」

 朔哉に触れただけで、一瞬で瘴気は鎮まった。これで自分は、友人を斬らずにすむかもしれない。
 そんな時、鷲宮中将が言った。

 『花菱みづきはあやかし憑きの娘だ。そばへ置き続ければ、身体の奥で穢れが育ち、いずれ誰にも止められないあやかしになる』

 鷲宮中将は軍の参謀本部にいる。討伐者のあやかし化についても、自分たちより詳しいと思ってた。
 そして暁斗は、それを信じてしまった。

 「俺は、五年間ずっと、お前が完全にあやかしになる日を恐れてた」

 心の奥へ長い年月をかけて植えつけられた恐怖。
 鷲宮は、そこへ巧みに入り込んだ。

 「私と朔哉さんを引き離せば、朔哉さんを救えると思ったんですね……?」

 みづきの問いかけに、暁斗は唇を噛んだ。

 「あんたを朔哉から離し、力の性質を調べるべきだと思った。それで、あんたをいったん軍の保護下へ移すよう進言した。でも屋敷を包囲しろとは言っていない。まして、朔哉へ禁術を使って、無理やり暴走させるなんて知らなかった」

 「鷲宮中将に利用されたからって、俺のしたことがなくなるわけじゃねえ。」

 朔哉の言葉を信じなかった。

 みづきの力を、自分の目で確かめようとしなかった。

 五年間抱えてきた恐怖に負け、鷲宮の言葉へ縋った。

 「鷲宮の命令に従って、俺が第一部隊を屋敷まで連れていった。結果的に、皆を危険に晒した」

 暁斗は、朔哉をまっすぐ見つめた。

 「悪かった」

 もう一度、深く頭を下げる。

 「本当に、悪かった」

 病室の外から、遠くを行き交う人々の足音が聞こえる。
 やがて、朔哉が静かに口を開いた。

 「……知らなかった」

 暁斗が顔を上げる。

 「何を?」
 「お前が、そんな密命を受けていたこと」

 今度は、暁斗が目を見開いた。

 「五年間も、ひとりで抱えていたのか」
 「……言えるわけねえだろ」

 朔哉は、自分の黒い左腕へ視線を落とした。

 「俺はずっと、自分があやかしになった時のことばかり考えていた」

 理性を失ったならば、誰かに止めてもらわなければならない。
 たとえ命を奪われることになっても、それは仕方がない。

 朔哉は、そう考えてきた。

 「けれど、その役目を負わされる人間が、どんな気持ちで俺のそばにいるのかまでは、考えていなかった。知らなかったとはいえ、五年も一緒にいたのに、お前が苦しんでいることへ気づけなかった」
 「……それは、お前が謝ることじゃねえだろ」

 みづきは、思わず朔哉の左腕へ触れた。
 暁斗は何かを言い返そうとして、結局、口を閉ざした。

 「だからといって、暁斗がしたことを、今すぐすべて許せるとは言えない。みづきも、屋敷の皆も傷ついた。俺だけが許せば済むことではないからね」
 「……当然だ」

 鷲宮に騙されていたとはいえ、暁斗が第一部隊を屋敷へ連れてきたことに変わりはない。
 兵士たちに囲まれ、朔哉は禁術を受けた。五百森家は穢野へ変わりかけ、タキも紗世もリツも、命の危険に晒された。
 みづき自身も、朔哉の爪で傷を負った。

 怖くなかったわけではない。
 何もなかったことにはできない。

 「許してくれとは言わねえ」
 「ああ。でも、最後に鷲宮の命令へ背き、禁術を止めようとしてくれたことには感謝してるよ」

 暁斗はしばらく朔哉を見つめていた。
 やがて、苦しげに、それでも確かに頷く。

 暁斗は一度息を吐くと、今度はみづきへ身体を向けた。

 「あんたにも悪いことをした」
 「……私も、すぐに許せるって言えるか分かりません……でも、朔哉さんを助けたいと思っていたことまで、嘘だったとは思いません」

 暁斗の目が、わずかに揺れた。

 「だから、これからの暁斗さんを見ます」
 「これから?」
 「はい」

 みづきは静かに頷いた。

 「許せるかどうかは、これから暁斗さんが何をするかを見てから決めます」

 暁斗はしばらく呆然としていた。

 やがて、参ったように頭を掻く。

 「思ったより厳しいな、あんた」
 「もっと厳しくしてもいいくらいです」
 「いや、そのくらいで勘弁してくれ」

 みづきは答えず、朔哉の寝台へ向き直った。

 「それより、朔哉さんをもっと叱ってください」
 「何で俺が?」

 突然話を向けられ、朔哉が眉を上げる。

 「安静にしないで、書類を読んでいたんです」

 暁斗が机の上へ置かれた書類を見ると、呆れた顔で朔哉を睨んだ。

 「お前、三日前に倒れたばっかりだろ」
 「もうほとんど問題ないよ」
 「病院の寝台で書類を読んでる奴が言っても、説得力ねえんだよ」
 「ほら」

 みづきが言うと、朔哉は小さく溜息をついた。

 「味方を増やしたね」
 「朔哉さんが言うことを聞かないからです」
 「俺は患者だから、もう少し優しくしてほしいんだけど」
 「患者らしくしていれば、優しくします」
 「手厳しいな」

 朔哉は不満そうだったが、それ以上、書類を返してほしいとは言わなかった。
 先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んでいく。

 何もかもが元通りになったわけではない。
 暁斗のしたことも、彼が抱えてきた五年間も、たった一度の謝罪で消えるものではなかった。

 それでも三人が同じ部屋で言葉を交わし、わずかでも笑えるところまで戻ってきた。
 今は、それで十分なのかもしれない。

 「また来る」
 「ああ」

 交わされたのは、短い言葉だけだった。

 けれど、暁斗の表情にほんのわずかに笑顔が戻った。

 それから病室へには、再び穏やかな静けさが戻った。
 みづきは、暁斗が立っていた場所を見つめる。

 みづきは、暁斗が立っていた場所をしばらく見つめていた。

 「朔哉さん」
 「うん?」

 「暁斗さんと、また前みたいになれるでしょうか」

 朔哉はすぐには答えなかった。
 閉じた扉へ目を向け、どこか遠いものを見るように目を細める。
 
 「すぐには、とはいかないかもしれない――でも、あいつはまた来ると言った」

 五年の間、お互いに言えなかったこと、知らなかったことがある。
 傷つけたことも、
 傷つけられたことも――すぐには消えないかもしれない。

 それでも、もう一度会うと約束できるのなら。
 これから少しずつ、結び直していくことはできるのかもしれない、とみづきは思った。

 みづきは、自分の懐へそっと触れた。
 中には、祭りの日に朔哉が取ってくれた狐の根付が入っている。

 首元にはひびが入り、赤い組紐も途中で切れていた。
 ひびも、切れた跡も、なかったことにはできない。けれど、捨てるつもりはなかった。
 
 「縁は、すぐに元通りにならなくてもいいんですね」
 「どうしたの、急に」
 「いいえ」

 みづきは懐へ手を置いたまま、小さく笑った。

 「少し、そう思っただけです」

 元通りでなくてもいい。
 傷ついた跡を残したままでも、そこへ新しい時間を重ねていけたらいい――そう思った。