五百森家襲撃から、三日が経った。
二度にわたる禁術によって、強制的にあやかし化を進められたものの、幸い命に別状はなかった。首筋や肩にまで広がっていた黒い鱗も消え、新たな侵食は確認されていない。
残ったのは、以前と変わらぬ異形の左腕と、急激な瘴気の増幅によって消耗した身体――静馬と軍医からは、少なくとも一週間は絶対安静だと言い渡されている。
「朔哉さん」
病室の扉を開けたみづきは、寝台の上にいる朔哉を見て、ぴたりと足を止めた。
「何をしているんですか」
朔哉は寝台の背へ身体を預け、右手で書類を読んでいた。白い病衣の左袖から、黒い鱗に覆われた腕が覗いている。
「少し、状況を確認していただけだよ」
「安静にしていなければ駄目です」
「横になって書類を読んでいるだけだけど」
「書類を読まずに横になってください」
みづきは寝台の横まで歩み寄ると、朔哉の手から書類を取り上げた。
「あ」
「『あ』ではありません」
書類を机の上へ置き、代わりに湯飲みを手渡す。
「軍医の先生も、静馬さんも、無理をしてはいけないと言っていました」
「もう十分休んだと思うんだけどね」
「三日前に倒れた人が、何を言っているんですか」
朔哉は困ったように笑った。その笑顔を見ると、みづきは強く叱れなくなってしまう。
あの日。赤く染まっていた瞳。異形となった爪。五百森家を覆った黒い穢れ。あの姿を思い出すだけで、今も胸が締めつけられる。けれど、目の前にいる朔哉は穏やかに笑っている。右手には確かな温もりがあり、呼吸も落ち着いていた。
無事に戻ってきてくれた。それだけで十分なはずなのに。
「どうしたの?」
朔哉に見つめられ、みづきは我に返る。
「いえ……」
「また、俺が消えてしまわないか心配している?」
心の内を見透かされたようで、みづきは目を伏せた。
「少しだけ」
「少し?」
「……とても、心配しています」
正直に答えると、朔哉は湯飲みを脇の台へ置いた。右手が伸びてくる。みづきの頬へ触れようとして、その指先が途中で止まった。
「痛む?」
「いいえ、もう全部治っていますから」
瘴気の中を進んだ時に傷ついたみづきの体は、縁の浄化の力によってすべて消え去っている。
「そうか、それならよかった」
朔哉はそう答えたものの、表情は曇ったままだった。黒い左腕へ視線を落とす。
「俺が君を傷つけてしまった」
「朔哉さんのせいじゃありません。それに、私が自分から飛び込んだんです。だから、後悔していません」
みづきは、はっきりと告げた。朔哉が顔を上げる。
「あの時、朔哉さんのところへ行かなかったら、私はきっと一生後悔していました」
その左腕へ、そっと両手で触れる。鱗の硬さもわずかに低い体温も、これまでと変わらない。
「だから、謝らないでください」
「……強くなったね」
朔哉が小さく笑った。
「誰のせいだと思っているんですか」
「俺のせい、と言いたげな顔をしているね」
「そうですよ?」
みづきが答えると、朔哉は少し嬉しそうに目を細めた。
その時。病室の外から、何かが壁へぶつかるような鈍い音がした。続いて、低い舌打ちが聞こえる。
みづきが扉へ目を向ける。
「今、誰か……」
「入ったらどうだ、暁斗」
朔哉が扉へ向かって声をかけた。しばらく返事はなかった。やがて、諦めたような溜息が聞こえ、扉がゆっくり開く。
姿を現したのは暁斗だった。
軍服姿ではあるものの、腰に刀は帯びていない。いつものような豪快さもなく、ひどく居心地が悪そうに病室へ入ってくる。
「いつから気づいてた」
「廊下を三度ほど往復していた辺りから」
「最初からじゃねえか」
「声をかけるまで、もう少しかかるかと思っていたよ」
暁斗は、朔哉の顔をまともに見ようとしなかった。
みづきは椅子から立ち上がる。
「私は、少し外へ」
「いや」
暁斗が遮った。みづきが振り返る。暁斗は一度唇を引き結び、それから低い声で続けた。
「あんたにも、聞いてほしい」
「私にも、ですか?」
「ああ」
座るよう勧めるべきか、みづきが迷っていると、朔哉が窓際の椅子を示した。
「座ったらどうだ」
「立ったままでいい」
朔哉はそれ以上勧めなかった。
暁斗は両手を握り締める。何か言おうとして、何度か口を開きかけた。けれど、言葉が出てこない。朔哉は急かさなかった。静かに、暁斗が話し始めるのを待っている。
「……悪かった」
ようやく暁斗の口から出たのは、短い謝罪だった。
視線は床へ落ちたままだ。
「何が、とは言わねえ。全部だ」
病室に、重い沈黙が落ちる。
暁斗は両手を強く握りしめた。何かを言おうとして、何度か唇を動かす。それでも言葉が続かず、朔哉は急かさずに待っていた。
やがて、暁斗が低い声で告げる。
「俺は、ずっと密命を受けていた。お前のあやかし化が進んで、理性を失った時は――俺が討てって」
病室の空気が、凍りついたように静まった。
朔哉の表情から、わずかに色が消える。
「それは、いつのことだ?」
「五年前だ」
それは、朔哉の左腕に初めてあやかし化の兆候が現れた頃と重なる。
「お前に一番近くて、剣で止められる可能性があるのは俺だとよ。ずいぶんと買い被られたもんだ」
暁斗は乾いた笑いを漏らした。
「最初は、断ろうと思った。でも俺が拒めば、別の誰かへ命令が下る。そいつがお前を止められる保証もない。だったら、俺が引き受けるしかねえと思った」
同じ戦場へ立ち背中を預け、時に笑い合う。
その一方で、いつかその友の命を、自らの剣で絶たなければならない。暁斗はそんな未来を、五年もの間、ひとりで抱えていた。
「何も知らねえお前が、俺を信じて背中を預けてくるたびに、いつかこの背中を斬るのかって、ずっと思ってた」
暁斗は堪えきれなくなったように視線を落としてから、少しだけみづきに視線を向ける。
「だから、あんたが現れた時希望を見た」
朔哉に触れただけで、一瞬で瘴気は鎮まった。これで自分は、友人を斬らずにすむかもしれない。
そんな時、鷲宮中将が言った。
『花菱みづきはあやかし憑きの娘だ。そばへ置き続ければ、身体の奥で穢れが育ち、いずれ誰にも止められないあやかしになる』
鷲宮中将は軍の参謀本部にいる。討伐者のあやかし化についても、自分たちより詳しいと思ってた。
そして暁斗は、それを信じてしまった。
「俺は、五年間ずっと、お前が完全にあやかしになる日を恐れてた」
心の奥へ長い年月をかけて植えつけられた恐怖。
鷲宮は、そこへ巧みに入り込んだ。
「私と朔哉さんを引き離せば、朔哉さんを救えると思ったんですね……?」
みづきの問いかけに、暁斗は唇を噛んだ。
「あんたを朔哉から離し、力の性質を調べるべきだと思った。それで、あんたをいったん軍の保護下へ移すよう進言した。でも屋敷を包囲しろとは言っていない。まして、朔哉へ禁術を使って、無理やり暴走させるなんて知らなかった」
「鷲宮中将に利用されたからって、俺のしたことがなくなるわけじゃねえ。」
朔哉の言葉を信じなかった。
みづきの力を、自分の目で確かめようとしなかった。
五年間抱えてきた恐怖に負け、鷲宮の言葉へ縋った。
「鷲宮の命令に従って、俺が第一部隊を屋敷まで連れていった。結果的に、皆を危険に晒した」
暁斗は、朔哉をまっすぐ見つめた。
「悪かった」
もう一度、深く頭を下げる。
「本当に、悪かった」
病室の外から、遠くを行き交う人々の足音が聞こえる。
やがて、朔哉が静かに口を開いた。
「……知らなかった」
暁斗が顔を上げる。
「何を?」
「お前が、そんな密命を受けていたこと」
今度は、暁斗が目を見開いた。
「五年間も、ひとりで抱えていたのか」
「……言えるわけねえだろ」
朔哉は、自分の黒い左腕へ視線を落とした。
「俺はずっと、自分があやかしになった時のことばかり考えていた」
理性を失ったならば、誰かに止めてもらわなければならない。
たとえ命を奪われることになっても、それは仕方がない。
朔哉は、そう考えてきた。
「けれど、その役目を負わされる人間が、どんな気持ちで俺のそばにいるのかまでは、考えていなかった。知らなかったとはいえ、五年も一緒にいたのに、お前が苦しんでいることへ気づけなかった」
「……それは、お前が謝ることじゃねえだろ」
みづきは、思わず朔哉の左腕へ触れた。
暁斗は何かを言い返そうとして、結局、口を閉ざした。
「だからといって、暁斗がしたことを、今すぐすべて許せるとは言えない。みづきも、屋敷の皆も傷ついた。俺だけが許せば済むことではないからね」
「……当然だ」
鷲宮に騙されていたとはいえ、暁斗が第一部隊を屋敷へ連れてきたことに変わりはない。
兵士たちに囲まれ、朔哉は禁術を受けた。五百森家は穢野へ変わりかけ、タキも紗世もリツも、命の危険に晒された。
みづき自身も、朔哉の爪で傷を負った。
怖くなかったわけではない。
何もなかったことにはできない。
「許してくれとは言わねえ」
「ああ。でも、最後に鷲宮の命令へ背き、禁術を止めようとしてくれたことには感謝してるよ」
暁斗はしばらく朔哉を見つめていた。
やがて、苦しげに、それでも確かに頷く。
暁斗は一度息を吐くと、今度はみづきへ身体を向けた。
「あんたにも悪いことをした」
「……私も、すぐに許せるって言えるか分かりません……でも、朔哉さんを助けたいと思っていたことまで、嘘だったとは思いません」
暁斗の目が、わずかに揺れた。
「だから、これからの暁斗さんを見ます」
「これから?」
「はい」
みづきは静かに頷いた。
「許せるかどうかは、これから暁斗さんが何をするかを見てから決めます」
暁斗はしばらく呆然としていた。
やがて、参ったように頭を掻く。
「思ったより厳しいな、あんた」
「もっと厳しくしてもいいくらいです」
「いや、そのくらいで勘弁してくれ」
みづきは答えず、朔哉の寝台へ向き直った。
「それより、朔哉さんをもっと叱ってください」
「何で俺が?」
突然話を向けられ、朔哉が眉を上げる。
「安静にしないで、書類を読んでいたんです」
暁斗が机の上へ置かれた書類を見ると、呆れた顔で朔哉を睨んだ。
「お前、三日前に倒れたばっかりだろ」
「もうほとんど問題ないよ」
「病院の寝台で書類を読んでる奴が言っても、説得力ねえんだよ」
「ほら」
みづきが言うと、朔哉は小さく溜息をついた。
「味方を増やしたね」
「朔哉さんが言うことを聞かないからです」
「俺は患者だから、もう少し優しくしてほしいんだけど」
「患者らしくしていれば、優しくします」
「手厳しいな」
朔哉は不満そうだったが、それ以上、書類を返してほしいとは言わなかった。
先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んでいく。
何もかもが元通りになったわけではない。
暁斗のしたことも、彼が抱えてきた五年間も、たった一度の謝罪で消えるものではなかった。
それでも三人が同じ部屋で言葉を交わし、わずかでも笑えるところまで戻ってきた。
今は、それで十分なのかもしれない。
「また来る」
「ああ」
交わされたのは、短い言葉だけだった。
けれど、暁斗の表情にほんのわずかに笑顔が戻った。
それから病室へには、再び穏やかな静けさが戻った。
みづきは、暁斗が立っていた場所を見つめる。
みづきは、暁斗が立っていた場所をしばらく見つめていた。
「朔哉さん」
「うん?」
「暁斗さんと、また前みたいになれるでしょうか」
朔哉はすぐには答えなかった。
閉じた扉へ目を向け、どこか遠いものを見るように目を細める。
「すぐには、とはいかないかもしれない――でも、あいつはまた来ると言った」
五年の間、お互いに言えなかったこと、知らなかったことがある。
傷つけたことも、
傷つけられたことも――すぐには消えないかもしれない。
それでも、もう一度会うと約束できるのなら。
これから少しずつ、結び直していくことはできるのかもしれない、とみづきは思った。
みづきは、自分の懐へそっと触れた。
中には、祭りの日に朔哉が取ってくれた狐の根付が入っている。
首元にはひびが入り、赤い組紐も途中で切れていた。
ひびも、切れた跡も、なかったことにはできない。けれど、捨てるつもりはなかった。
「縁は、すぐに元通りにならなくてもいいんですね」
「どうしたの、急に」
「いいえ」
みづきは懐へ手を置いたまま、小さく笑った。
「少し、そう思っただけです」
元通りでなくてもいい。
傷ついた跡を残したままでも、そこへ新しい時間を重ねていけたらいい――そう思った。
二度にわたる禁術によって、強制的にあやかし化を進められたものの、幸い命に別状はなかった。首筋や肩にまで広がっていた黒い鱗も消え、新たな侵食は確認されていない。
残ったのは、以前と変わらぬ異形の左腕と、急激な瘴気の増幅によって消耗した身体――静馬と軍医からは、少なくとも一週間は絶対安静だと言い渡されている。
「朔哉さん」
病室の扉を開けたみづきは、寝台の上にいる朔哉を見て、ぴたりと足を止めた。
「何をしているんですか」
朔哉は寝台の背へ身体を預け、右手で書類を読んでいた。白い病衣の左袖から、黒い鱗に覆われた腕が覗いている。
「少し、状況を確認していただけだよ」
「安静にしていなければ駄目です」
「横になって書類を読んでいるだけだけど」
「書類を読まずに横になってください」
みづきは寝台の横まで歩み寄ると、朔哉の手から書類を取り上げた。
「あ」
「『あ』ではありません」
書類を机の上へ置き、代わりに湯飲みを手渡す。
「軍医の先生も、静馬さんも、無理をしてはいけないと言っていました」
「もう十分休んだと思うんだけどね」
「三日前に倒れた人が、何を言っているんですか」
朔哉は困ったように笑った。その笑顔を見ると、みづきは強く叱れなくなってしまう。
あの日。赤く染まっていた瞳。異形となった爪。五百森家を覆った黒い穢れ。あの姿を思い出すだけで、今も胸が締めつけられる。けれど、目の前にいる朔哉は穏やかに笑っている。右手には確かな温もりがあり、呼吸も落ち着いていた。
無事に戻ってきてくれた。それだけで十分なはずなのに。
「どうしたの?」
朔哉に見つめられ、みづきは我に返る。
「いえ……」
「また、俺が消えてしまわないか心配している?」
心の内を見透かされたようで、みづきは目を伏せた。
「少しだけ」
「少し?」
「……とても、心配しています」
正直に答えると、朔哉は湯飲みを脇の台へ置いた。右手が伸びてくる。みづきの頬へ触れようとして、その指先が途中で止まった。
「痛む?」
「いいえ、もう全部治っていますから」
瘴気の中を進んだ時に傷ついたみづきの体は、縁の浄化の力によってすべて消え去っている。
「そうか、それならよかった」
朔哉はそう答えたものの、表情は曇ったままだった。黒い左腕へ視線を落とす。
「俺が君を傷つけてしまった」
「朔哉さんのせいじゃありません。それに、私が自分から飛び込んだんです。だから、後悔していません」
みづきは、はっきりと告げた。朔哉が顔を上げる。
「あの時、朔哉さんのところへ行かなかったら、私はきっと一生後悔していました」
その左腕へ、そっと両手で触れる。鱗の硬さもわずかに低い体温も、これまでと変わらない。
「だから、謝らないでください」
「……強くなったね」
朔哉が小さく笑った。
「誰のせいだと思っているんですか」
「俺のせい、と言いたげな顔をしているね」
「そうですよ?」
みづきが答えると、朔哉は少し嬉しそうに目を細めた。
その時。病室の外から、何かが壁へぶつかるような鈍い音がした。続いて、低い舌打ちが聞こえる。
みづきが扉へ目を向ける。
「今、誰か……」
「入ったらどうだ、暁斗」
朔哉が扉へ向かって声をかけた。しばらく返事はなかった。やがて、諦めたような溜息が聞こえ、扉がゆっくり開く。
姿を現したのは暁斗だった。
軍服姿ではあるものの、腰に刀は帯びていない。いつものような豪快さもなく、ひどく居心地が悪そうに病室へ入ってくる。
「いつから気づいてた」
「廊下を三度ほど往復していた辺りから」
「最初からじゃねえか」
「声をかけるまで、もう少しかかるかと思っていたよ」
暁斗は、朔哉の顔をまともに見ようとしなかった。
みづきは椅子から立ち上がる。
「私は、少し外へ」
「いや」
暁斗が遮った。みづきが振り返る。暁斗は一度唇を引き結び、それから低い声で続けた。
「あんたにも、聞いてほしい」
「私にも、ですか?」
「ああ」
座るよう勧めるべきか、みづきが迷っていると、朔哉が窓際の椅子を示した。
「座ったらどうだ」
「立ったままでいい」
朔哉はそれ以上勧めなかった。
暁斗は両手を握り締める。何か言おうとして、何度か口を開きかけた。けれど、言葉が出てこない。朔哉は急かさなかった。静かに、暁斗が話し始めるのを待っている。
「……悪かった」
ようやく暁斗の口から出たのは、短い謝罪だった。
視線は床へ落ちたままだ。
「何が、とは言わねえ。全部だ」
病室に、重い沈黙が落ちる。
暁斗は両手を強く握りしめた。何かを言おうとして、何度か唇を動かす。それでも言葉が続かず、朔哉は急かさずに待っていた。
やがて、暁斗が低い声で告げる。
「俺は、ずっと密命を受けていた。お前のあやかし化が進んで、理性を失った時は――俺が討てって」
病室の空気が、凍りついたように静まった。
朔哉の表情から、わずかに色が消える。
「それは、いつのことだ?」
「五年前だ」
それは、朔哉の左腕に初めてあやかし化の兆候が現れた頃と重なる。
「お前に一番近くて、剣で止められる可能性があるのは俺だとよ。ずいぶんと買い被られたもんだ」
暁斗は乾いた笑いを漏らした。
「最初は、断ろうと思った。でも俺が拒めば、別の誰かへ命令が下る。そいつがお前を止められる保証もない。だったら、俺が引き受けるしかねえと思った」
同じ戦場へ立ち背中を預け、時に笑い合う。
その一方で、いつかその友の命を、自らの剣で絶たなければならない。暁斗はそんな未来を、五年もの間、ひとりで抱えていた。
「何も知らねえお前が、俺を信じて背中を預けてくるたびに、いつかこの背中を斬るのかって、ずっと思ってた」
暁斗は堪えきれなくなったように視線を落としてから、少しだけみづきに視線を向ける。
「だから、あんたが現れた時希望を見た」
朔哉に触れただけで、一瞬で瘴気は鎮まった。これで自分は、友人を斬らずにすむかもしれない。
そんな時、鷲宮中将が言った。
『花菱みづきはあやかし憑きの娘だ。そばへ置き続ければ、身体の奥で穢れが育ち、いずれ誰にも止められないあやかしになる』
鷲宮中将は軍の参謀本部にいる。討伐者のあやかし化についても、自分たちより詳しいと思ってた。
そして暁斗は、それを信じてしまった。
「俺は、五年間ずっと、お前が完全にあやかしになる日を恐れてた」
心の奥へ長い年月をかけて植えつけられた恐怖。
鷲宮は、そこへ巧みに入り込んだ。
「私と朔哉さんを引き離せば、朔哉さんを救えると思ったんですね……?」
みづきの問いかけに、暁斗は唇を噛んだ。
「あんたを朔哉から離し、力の性質を調べるべきだと思った。それで、あんたをいったん軍の保護下へ移すよう進言した。でも屋敷を包囲しろとは言っていない。まして、朔哉へ禁術を使って、無理やり暴走させるなんて知らなかった」
「鷲宮中将に利用されたからって、俺のしたことがなくなるわけじゃねえ。」
朔哉の言葉を信じなかった。
みづきの力を、自分の目で確かめようとしなかった。
五年間抱えてきた恐怖に負け、鷲宮の言葉へ縋った。
「鷲宮の命令に従って、俺が第一部隊を屋敷まで連れていった。結果的に、皆を危険に晒した」
暁斗は、朔哉をまっすぐ見つめた。
「悪かった」
もう一度、深く頭を下げる。
「本当に、悪かった」
病室の外から、遠くを行き交う人々の足音が聞こえる。
やがて、朔哉が静かに口を開いた。
「……知らなかった」
暁斗が顔を上げる。
「何を?」
「お前が、そんな密命を受けていたこと」
今度は、暁斗が目を見開いた。
「五年間も、ひとりで抱えていたのか」
「……言えるわけねえだろ」
朔哉は、自分の黒い左腕へ視線を落とした。
「俺はずっと、自分があやかしになった時のことばかり考えていた」
理性を失ったならば、誰かに止めてもらわなければならない。
たとえ命を奪われることになっても、それは仕方がない。
朔哉は、そう考えてきた。
「けれど、その役目を負わされる人間が、どんな気持ちで俺のそばにいるのかまでは、考えていなかった。知らなかったとはいえ、五年も一緒にいたのに、お前が苦しんでいることへ気づけなかった」
「……それは、お前が謝ることじゃねえだろ」
みづきは、思わず朔哉の左腕へ触れた。
暁斗は何かを言い返そうとして、結局、口を閉ざした。
「だからといって、暁斗がしたことを、今すぐすべて許せるとは言えない。みづきも、屋敷の皆も傷ついた。俺だけが許せば済むことではないからね」
「……当然だ」
鷲宮に騙されていたとはいえ、暁斗が第一部隊を屋敷へ連れてきたことに変わりはない。
兵士たちに囲まれ、朔哉は禁術を受けた。五百森家は穢野へ変わりかけ、タキも紗世もリツも、命の危険に晒された。
みづき自身も、朔哉の爪で傷を負った。
怖くなかったわけではない。
何もなかったことにはできない。
「許してくれとは言わねえ」
「ああ。でも、最後に鷲宮の命令へ背き、禁術を止めようとしてくれたことには感謝してるよ」
暁斗はしばらく朔哉を見つめていた。
やがて、苦しげに、それでも確かに頷く。
暁斗は一度息を吐くと、今度はみづきへ身体を向けた。
「あんたにも悪いことをした」
「……私も、すぐに許せるって言えるか分かりません……でも、朔哉さんを助けたいと思っていたことまで、嘘だったとは思いません」
暁斗の目が、わずかに揺れた。
「だから、これからの暁斗さんを見ます」
「これから?」
「はい」
みづきは静かに頷いた。
「許せるかどうかは、これから暁斗さんが何をするかを見てから決めます」
暁斗はしばらく呆然としていた。
やがて、参ったように頭を掻く。
「思ったより厳しいな、あんた」
「もっと厳しくしてもいいくらいです」
「いや、そのくらいで勘弁してくれ」
みづきは答えず、朔哉の寝台へ向き直った。
「それより、朔哉さんをもっと叱ってください」
「何で俺が?」
突然話を向けられ、朔哉が眉を上げる。
「安静にしないで、書類を読んでいたんです」
暁斗が机の上へ置かれた書類を見ると、呆れた顔で朔哉を睨んだ。
「お前、三日前に倒れたばっかりだろ」
「もうほとんど問題ないよ」
「病院の寝台で書類を読んでる奴が言っても、説得力ねえんだよ」
「ほら」
みづきが言うと、朔哉は小さく溜息をついた。
「味方を増やしたね」
「朔哉さんが言うことを聞かないからです」
「俺は患者だから、もう少し優しくしてほしいんだけど」
「患者らしくしていれば、優しくします」
「手厳しいな」
朔哉は不満そうだったが、それ以上、書類を返してほしいとは言わなかった。
先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んでいく。
何もかもが元通りになったわけではない。
暁斗のしたことも、彼が抱えてきた五年間も、たった一度の謝罪で消えるものではなかった。
それでも三人が同じ部屋で言葉を交わし、わずかでも笑えるところまで戻ってきた。
今は、それで十分なのかもしれない。
「また来る」
「ああ」
交わされたのは、短い言葉だけだった。
けれど、暁斗の表情にほんのわずかに笑顔が戻った。
それから病室へには、再び穏やかな静けさが戻った。
みづきは、暁斗が立っていた場所を見つめる。
みづきは、暁斗が立っていた場所をしばらく見つめていた。
「朔哉さん」
「うん?」
「暁斗さんと、また前みたいになれるでしょうか」
朔哉はすぐには答えなかった。
閉じた扉へ目を向け、どこか遠いものを見るように目を細める。
「すぐには、とはいかないかもしれない――でも、あいつはまた来ると言った」
五年の間、お互いに言えなかったこと、知らなかったことがある。
傷つけたことも、
傷つけられたことも――すぐには消えないかもしれない。
それでも、もう一度会うと約束できるのなら。
これから少しずつ、結び直していくことはできるのかもしれない、とみづきは思った。
みづきは、自分の懐へそっと触れた。
中には、祭りの日に朔哉が取ってくれた狐の根付が入っている。
首元にはひびが入り、赤い組紐も途中で切れていた。
ひびも、切れた跡も、なかったことにはできない。けれど、捨てるつもりはなかった。
「縁は、すぐに元通りにならなくてもいいんですね」
「どうしたの、急に」
「いいえ」
みづきは懐へ手を置いたまま、小さく笑った。
「少し、そう思っただけです」
元通りでなくてもいい。
傷ついた跡を残したままでも、そこへ新しい時間を重ねていけたらいい――そう思った。

