穢れの軍神と縁の花嫁

  耳元で、声がした。
 
 ――お前が災いを招いた。
 
 聞き慣れた声だった。羽倉で石を投げた人。水を拒んだ人。故郷で、生き残ったみづきを恐れた人々の声。
   瘴気が口から入り込み、喉を塞ぐ。視界が暗くなった。
 
 リツが駆け回った芝生が、黒く枯れていく。羅刹が羽を休める大樹の幹に、腐った筋が這い上がる。紗世と並んで洗濯物を干した場所に、墨のような染みが広がっていく。タキが手入れしていた花壇の花が、一輪、また一輪と頭を垂れた。
 
 また、失われていく。
 
 大切にしていた場所が。ようやく見つけた居場所が。
 
 「嫌……」
 
 膝が折れた。黒く枯れた地面へ、両手をつく。冷たい土。故郷の穢野と同じ匂い。
 
 あの日と、同じだ。
 
 ――また、すべて失う。
 
 違う。
 
 みづきは顔を上げた。
  今度は、逃げない。今度こそ、守りたい。
 
 黒い瘴気の向こうに、朔哉がいる。
 周囲の兵士たちが恐怖に顔を歪め、後ずさっていく。誰もがあやかしを恐れ、赤い瞳と黒い鱗から目を背けた。

 けれど、みづきはもう――少しも怖くなかった。
 あやかしでも、人でも、関係ない。

 化け物でも、そうじゃなくても——自分に居場所をくれたのも、誰かを大切に思う気持ちを教えてくれたのも、存在していていいと肯定してくれたのも、全部、朔哉だった。
 
 みづきは立ち上がった。足は震えている。全身が痛い。それでも、一歩を踏み出す。
 
 その瞬間――左手の薬指に、かすかな温もりが触れた。
 
 「……え?」
 
 細い光の糸が一本、指先に絡みついている。
 白く、柔らかな光――みづきを呼ぶ父の声が、記憶の奥から蘇る。
 
 もう一本。髪を撫でてくれた母の手の温もり。
  また一本。村の子どもたちと駆け回った山の風。皆で囲んだ食卓の温かさ。夕暮れを告げる鐘の音。

 失われたからといって、すべてが消えてしまったわけではない。
 父と母がくれた愛情も、村で過ごした日々も、すべて今のみづきにつながっている。
 
  さらに、新しい光が集まってくる。

 リツの小さな手。
 紗世の明るい笑い声。
 タキが差し出してくれた温かな椀。
 羅刹のぶっきらぼうな言葉。
 そして、危険を承知でここまで連れてきてくれた静馬の声。
 
 これまで結んできた縁が、一本ずつ薬指へ集まってくる。
 細い糸が重なり合い、輝きを増していった。
 やがてそれは大きな光の束となって、みづきの手元から朔哉へ向かって道となっていく。
 
 「朔哉さん……」
 
 赤い瞳が、みづきへ向けられた。
 そこに理性が残っているのかは分からない。それでも進む。一歩。また一歩。光の束へ触れた瘴気が、白い粒となって消えていく。
 
 「来るな……」
 
 黒い風が頬を切る。腕に細かな傷が走る。着物が裂け、血が滲んだ。
 獣の唸りに混じって、朔哉の声が聞こえた。

 大丈夫、まだ朔哉はそこにいる。
 
  「逃げ……ろ……」
 
 みづきは首を横に振った。
  朔哉の異形の左腕が持ち上がる。長く伸びた爪が、みづきへ向けられた。それでも、足を止めなかった。朔哉の爪が振り下ろされる。みづきは避けなかった。鋭い爪が肩を掠め、着物が大きく裂ける。
 
 「っ……!」
 
 熱い痛みが走った。身体がよろめく。それでも、最後の一歩を踏み出した。
  朔哉の胸へ飛び込む。異形となった身体へ、両腕を回した。
 
 「み……づき……」
 
 朔哉の身体は熱かった。黒い鱗は硬く、胸元からも瘴気が噴き出している。
 抱き締めた腕へ、鋭い痛みが走った。それでも離さない。
 
 「離せ……」
 「嫌です」
  「俺は……お前を……」
 
 朔哉の身体が大きく震えた。みづきは異形となった胸へ頬を押し当てる。
 激しく、乱れた心臓の音が聞こえた。まだ生きている。まだ朔哉は、ここにいる。それだけで涙があふれた。
 
 「いいんです、あなたが何だったとしても」

 人でも、あやかしでも。
 元の姿へ戻っても、戻れなくても。
 
 あなたが何になっても、みづきにとっては朔哉だ。
 居場所をくれたのも、化け物じゃないと言ってくれたのも――全部、あなただから。
 
 ずっと胸の中にあったこの願いの名前を、みづきはようやく知った。
 朔哉へ回した腕に、力を込める。
 
 「あなたを、愛しています」
 
 薬指に集まった光の束が、朔哉の中へ流れ込んでいく。その言葉と同時に、光が弾けた。
 
 無数の糸が一つの大きな束となり、みづきと朔哉を包み込む。眩い白い光。空へ噴き上がっていた黒い瘴気が、光へ触れた端から消えていく。
 
 朔哉の喉から、苦しげな声が漏れた。首筋を覆っていた黒い鱗が、少しずつ薄くなる。
 肩まで侵食していた異形が、光の中で退いていく。鋭く伸びていた牙が元へ戻る。獣の爪も短くなり、人の手の形を取り戻していく。赤く染まっていた右目が、ゆっくりと黒曜石の色へ戻った。
 
 ただし、左腕だけは黒い鱗に覆われたままだった。肘から指先まで。朔哉が長い年月をかけて背負ってきた異形だけは、消えていない。それでも、そこから溢れていた禍々しい瘴気は完全に消えていた。
 
 「み……づき……」
 
 朔哉の唇が動く。人の声だった。
 
 「はい」
 
 みづきの目から、また涙が零れる。朔哉の胸に額を当てたまま、目を閉じる。
 
 光は二人の周囲だけでは止まらなかった。朔哉の足元へ流れ落ち、黒く染まった地面へ染み込んでいく。白い輝きが、五百森家の敷地全体へ広がった。
 
 「何だ……?」
 
 黒く枯れていた草の根元から、淡い緑が滲むように広がっていく。
 縮れていた葉はゆっくりとほどけ、木々の幹を蝕んでいた黒い筋は、白い光の粒となって空へ溶けた。屋敷の柱へ這い上がっていた染みも、波が引くように薄れていく。

 やがて、静まり返っていた庭へ、一羽の鳥が戻ってきた。その声へ応えるように、もう一羽。また一羽と、鳥たちが木々へ舞い戻ってきた。蘇った葉が柔らかな音を立て、澄んだ池の水面に、淡い光が揺れる。

 失われかけていた命の気配が、五百森家へ戻ってくる。

 そこはもう、穢野ではなかった。
 みづきがようやく見つけた居場所が、静かに息を吹き返していた。
 
 「まさか……土地そのものを浄化した……?」
 
 静馬の声が震える。
 みづきの力は、ただ瘴気を消すものではない。穢れによって断たれた命のつながりを結び直し、本来の姿へ戻している。
 
 「あり得ぬ……穢野を、元へ戻しただと……?」
 
 鷲宮が呆然と呟く。先ほどまでの余裕は、どこにもない。
 周囲の兵士たちは武器を下ろし、光の中にいるみづきと朔哉を見つめている。
 
 みづきの腕の中で、朔哉の身体から力が抜けた。
 
 「朔哉さん!」
 
 支えきれず、みづきも一緒に地面へ膝をつく。朔哉の右手が、ゆっくりと持ち上がった。震える指先が、みづきの頬へ触れる。傷を避けるような、優しい触れ方だった。
 
 「君は……どうして……」
 
 「朔哉さんにだけは、言われたくありません」
 
 みづきは泣きながら答えた。
 
 「いつも、自分のことばかり後回しにするんですから」
 
 朔哉はかすかに笑った。弱々しい。けれど、確かにいつもの朔哉の笑顔だった。
 
 みづきは頬へ触れている手へ、自分の手を重ねる。
 
 「お帰りなさい」
 
 朔哉の瞳が揺れて、やがて安堵するように目を細める。

 「ああ……ただいま」

 みづきは朔哉の黒い左腕へ、そっと触れた。
 異形のまま残った腕。それでも、怖くない。人の姿へ戻ったから受け入れるのではない。たとえ戻らなかったとしても、みづきの気持ちは変わらない。

 朔哉は朔哉だ。
 この世でたったひとり、みづきへ居場所をくれた大切な人だった。