朔哉の足元から、黒い瘴気が地面へ流れ落ちる。泥のように石畳の隙間へ染み込み、細い筋となって庭へ広がっていった。触れた草が、一瞬で色を失う。
「あ……」
青々としていた葉が黒く縮れ、地面へ落ちた。
庭木の幹には、腐った血管のような筋が浮かび上がる。澄んでいた池の水も、墨を流し込んだように濁り始めた。水面近くで、魚が苦しげに身を翻す。鳥の声が消えた。虫の羽音もない。五百森家の敷地から、命の気配が一つずつ奪われていく。
みづきは息を呑んだ。知っている。この景色を、知っている。
黒く変わる草木。濁る水。息をするものが少しずつ消えていく土地。故郷を呑み込んだ穢野と、同じだった。
「五百森少佐、よく見ろ。お前が守ってきた屋敷を」
鷲宮の愉悦を含んだ声で問いかけに、朔哉の赤い瞳が、ゆっくりと庭へ向けられた。
「人もあやかしも、同じ場所で暮らせると思っていたのだったな」
屋敷の柱へ、黒い染みが這い上がっていく。リツが駆け回った庭。羅刹が羽を休める大樹。紗世と洗濯物を干した場所。タキと共に食事を作り、皆で食卓を囲んだ屋敷。みづきが初めて、ここにいていいのだと思えた場所。それらすべてが、朔哉自身から溢れ出した穢れに侵されていく。
「それが今では、お前の穢れに呑まれている」
朔哉の喉から、掠れた声が漏れた。
「どうだ。自らの手で大切な居場所を死の大地へと変えていく気分は?お前が守ってきたものは、すべてお前自身が壊すのだ」
「……やめろ!」
朔哉の怒号とともに、さらに激しい瘴気が噴き上がった。
庭の木々が大きくしなり、残っていた葉が一斉に黒く変わる。鷲宮の言葉が、朔哉に残された理性を内側から抉っていた。
「お前のしてきたことへの報いだ、五百森少佐。あやかしとの共存などと戯言にすぎん。穢野を生み出しているのは、お前自身だ。理性を失い、辺りを死の土地へ変える。それが危険な化け物である証拠ではないか」
すると鷲宮は、朔哉への興味を失ったように背を向ける。
「久我少尉」
呼ばれた暁斗の表情が強張った。
「討伐者・五百森朔哉は、あやかしへ堕ちた。このままでは、穢野は屋敷の外へも広がる。やがて帝都へ甚大な被害を及ぼすだろう。今こそ密命を果たす時だ」
周囲の兵士たちが息をのんだ。暁斗は朔哉を見つめたまま、動かない。
「五百森少佐を討て」
重ねられた命令に、暁斗の右手が刀の柄へ伸びた。
ゆっくりと、刀が鞘から抜かれる。冷たい刃が、黒い瘴気を映した。けれど、その切っ先は小さく揺れていた。
「何をしている。早く斬れ」
みづきには、なぜ暁斗が朔哉へ刃を向けているのか分からなかった。
けれど、このままでは朔哉が討たれる。そのことだけは分かった。
みづきは朔哉へ向かって踏み出した。
「駄目です!今の瘴気は、これまでとは違います」
静馬の表情にも、いつもの冷静さはなかった。
「少佐の内側に蓄積していたものだけではありません。禁術によって、外部から増幅され続けています。みづきさんの力でも、追いつかない可能性があります。近づけば、あなた自身が穢れに呑まれます」
みづきの指先が震える。怖くないわけではなかった。赤い瞳。鋭い牙。人のものとは思えない黒い爪。周囲の命を奪い、五百森家を穢野へ変えていく瘴気。その中心へ、自ら近づこうとしている。
それでも。
「朔哉さんは、もっと苦しいはずです」
「みづきさん」
「今、あの中で一人で耐えています」
故郷を失った日のことを思い出した。父も。母も。村で暮らしていた人々も。どれほど苦しかっただろう。どれほど怖かっただろう。みづきには、何もできなかった。ただ一人生き残った。今も、なぜ自分だけが助かったのか分からない。
けれど、今は手を伸ばせる。
「私はもう、大切な人が苦しんでいるのを、何もせずに見ていたくありません。だから行かせてください」
静馬は苦しげに目を伏せた。やがて、みづきの腕を掴んでいた手を離す。
「……無理だと思ったら、すぐに戻ってください」
みづきは返事をしなかった。
朔哉へ向かって走り出す。けれど、黒い瘴気の中へ足を踏み入れてすぐに、全身を鋭い痛みが貫いた。
「っ……!」
息が止まる。冷たい。同時に、焼けるように熱い。喉へ黒い泥を流し込まれたように、呼吸ができない。瘴気が肌を裂き、身体の内側へ入り込もうとする。
それでもみづきは右手を伸ばした。指先へ意識を集中する。
これまで、朔哉の左腕へ触れた時と同じように。
淡い光が灯った。小さな、白い光。
「お願い……」
朔哉へ向け、手を伸ばす。けれど白い光は朔哉へ届く前に、黒い瘴気へ呑み込まれた。
「あ……」
跡形もなく消える。もう一度、力を込める。指先へ光が宿る。それでも同じだった。細い光は、押し寄せる黒い穢れに塗り潰されていく。
足を進めようとしても一歩進むたびに、身体が重くなった。膝が震える。目の前にいるはずの朔哉の姿が、黒い霧の向こうへ遠ざかっていく。
「みづきさん、戻って!」
静馬の声が聞こえた。けれど、もう遠い。暁斗も何かを叫んでいる。言葉の意味までは分からなかった。
「あ……」
青々としていた葉が黒く縮れ、地面へ落ちた。
庭木の幹には、腐った血管のような筋が浮かび上がる。澄んでいた池の水も、墨を流し込んだように濁り始めた。水面近くで、魚が苦しげに身を翻す。鳥の声が消えた。虫の羽音もない。五百森家の敷地から、命の気配が一つずつ奪われていく。
みづきは息を呑んだ。知っている。この景色を、知っている。
黒く変わる草木。濁る水。息をするものが少しずつ消えていく土地。故郷を呑み込んだ穢野と、同じだった。
「五百森少佐、よく見ろ。お前が守ってきた屋敷を」
鷲宮の愉悦を含んだ声で問いかけに、朔哉の赤い瞳が、ゆっくりと庭へ向けられた。
「人もあやかしも、同じ場所で暮らせると思っていたのだったな」
屋敷の柱へ、黒い染みが這い上がっていく。リツが駆け回った庭。羅刹が羽を休める大樹。紗世と洗濯物を干した場所。タキと共に食事を作り、皆で食卓を囲んだ屋敷。みづきが初めて、ここにいていいのだと思えた場所。それらすべてが、朔哉自身から溢れ出した穢れに侵されていく。
「それが今では、お前の穢れに呑まれている」
朔哉の喉から、掠れた声が漏れた。
「どうだ。自らの手で大切な居場所を死の大地へと変えていく気分は?お前が守ってきたものは、すべてお前自身が壊すのだ」
「……やめろ!」
朔哉の怒号とともに、さらに激しい瘴気が噴き上がった。
庭の木々が大きくしなり、残っていた葉が一斉に黒く変わる。鷲宮の言葉が、朔哉に残された理性を内側から抉っていた。
「お前のしてきたことへの報いだ、五百森少佐。あやかしとの共存などと戯言にすぎん。穢野を生み出しているのは、お前自身だ。理性を失い、辺りを死の土地へ変える。それが危険な化け物である証拠ではないか」
すると鷲宮は、朔哉への興味を失ったように背を向ける。
「久我少尉」
呼ばれた暁斗の表情が強張った。
「討伐者・五百森朔哉は、あやかしへ堕ちた。このままでは、穢野は屋敷の外へも広がる。やがて帝都へ甚大な被害を及ぼすだろう。今こそ密命を果たす時だ」
周囲の兵士たちが息をのんだ。暁斗は朔哉を見つめたまま、動かない。
「五百森少佐を討て」
重ねられた命令に、暁斗の右手が刀の柄へ伸びた。
ゆっくりと、刀が鞘から抜かれる。冷たい刃が、黒い瘴気を映した。けれど、その切っ先は小さく揺れていた。
「何をしている。早く斬れ」
みづきには、なぜ暁斗が朔哉へ刃を向けているのか分からなかった。
けれど、このままでは朔哉が討たれる。そのことだけは分かった。
みづきは朔哉へ向かって踏み出した。
「駄目です!今の瘴気は、これまでとは違います」
静馬の表情にも、いつもの冷静さはなかった。
「少佐の内側に蓄積していたものだけではありません。禁術によって、外部から増幅され続けています。みづきさんの力でも、追いつかない可能性があります。近づけば、あなた自身が穢れに呑まれます」
みづきの指先が震える。怖くないわけではなかった。赤い瞳。鋭い牙。人のものとは思えない黒い爪。周囲の命を奪い、五百森家を穢野へ変えていく瘴気。その中心へ、自ら近づこうとしている。
それでも。
「朔哉さんは、もっと苦しいはずです」
「みづきさん」
「今、あの中で一人で耐えています」
故郷を失った日のことを思い出した。父も。母も。村で暮らしていた人々も。どれほど苦しかっただろう。どれほど怖かっただろう。みづきには、何もできなかった。ただ一人生き残った。今も、なぜ自分だけが助かったのか分からない。
けれど、今は手を伸ばせる。
「私はもう、大切な人が苦しんでいるのを、何もせずに見ていたくありません。だから行かせてください」
静馬は苦しげに目を伏せた。やがて、みづきの腕を掴んでいた手を離す。
「……無理だと思ったら、すぐに戻ってください」
みづきは返事をしなかった。
朔哉へ向かって走り出す。けれど、黒い瘴気の中へ足を踏み入れてすぐに、全身を鋭い痛みが貫いた。
「っ……!」
息が止まる。冷たい。同時に、焼けるように熱い。喉へ黒い泥を流し込まれたように、呼吸ができない。瘴気が肌を裂き、身体の内側へ入り込もうとする。
それでもみづきは右手を伸ばした。指先へ意識を集中する。
これまで、朔哉の左腕へ触れた時と同じように。
淡い光が灯った。小さな、白い光。
「お願い……」
朔哉へ向け、手を伸ばす。けれど白い光は朔哉へ届く前に、黒い瘴気へ呑み込まれた。
「あ……」
跡形もなく消える。もう一度、力を込める。指先へ光が宿る。それでも同じだった。細い光は、押し寄せる黒い穢れに塗り潰されていく。
足を進めようとしても一歩進むたびに、身体が重くなった。膝が震える。目の前にいるはずの朔哉の姿が、黒い霧の向こうへ遠ざかっていく。
「みづきさん、戻って!」
静馬の声が聞こえた。けれど、もう遠い。暁斗も何かを叫んでいる。言葉の意味までは分からなかった。

